【第69回】アクセス権⑤ #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話
1. 中間的な領域の存在について
これまで検討してきたのは、不法行為が成立しない場合で、政党に対する意見広告のケースと、個人に対して名誉毀損を理由とする不法行為が成立しているケースですから、いわば対極にあるというか、両極端なケースです。純然たる民間人についてしかも不法行為も成立しないという、中間的な領域というのが存在します。
2. 刑事責任・民事責任
ところで、自動車を運転していて、人にぶつけてしまった場合、状況にもよりますが、業務上過失致傷罪(刑法211条)が成立することになります。
しかし、どんなに軽傷であったとしても、あるいは、ぶつけられた側に多少の落ち度があったとしても、すべて起訴して有罪判決を獲得すべきだとは、普通は考えないと思います。「示談」が成立していれば、そこまで目くじら立てなくてもいいのではないか、ということでしょう。この「示談」の内容は、治療費であったり、慰謝料であったりでしょうから、民法上の損害賠償責任を果たしているということになります。
このように、民事責任と刑事責任とは別物ですし、一般に、民事責任に比べて刑事責任のほうが重いものと認識されています。
3. 真実性の証明がない場合、名誉権侵害の事実は残っている
名誉毀損罪のところで検討したように、名誉権を侵害するような事実が真実だと証明できなかった場合でも、行為者がその事実を真実であることを誤信し、その誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、名誉毀損の罪は成立しないとするのが判例でした。
自動車事故の例でみたように、法律による解決の仕方として、刑罰というのは最も激烈な手段ですから、場合によっては刑罰に付すほどではないけれども、民事責任は負うべきではないか、ということもありえます。しかし、刑事事件の判例の理論(相当性の理論)は、不法行為に基づく損害賠償請求においても踏襲されています(最判昭41.6.23)。そうだとすると、名誉毀損については不法行為も成立しないことになります。
しかし、名誉権を侵害された側からすれば、相手方がいかにそう信じるについての根拠があったかどうかはあずかり知らない話の場合もあるはずです。「そのように信じることにそれなりの根拠があったかもしれないけれども、客観的には、ウソに基づいて悪口を言っていたではないか」という、ことについて、何らの救済もされない、ということで良いのでしょうか。
4. 救済方法について考える
表現の自由にかかわる民事的な解決手段として、事前抑制、たとえば出版物を事前に差し止めることと、事後に訂正記事や反論文を掲載することとを比べれば、表現の自由に対するダメージは前者のほうが激烈で、後者のほうがより軽度であるといえると思います。表現の自由に対する萎縮的効果がまったくないとまではいいませんが、事前抑制や刑事罰よりは小さいものと評価できるはずです。
そこで、表現の自由と名誉権の調整という観点からは、少なくとも、このカテゴリーに属するケースについて、法律で反論権なり訂正文の掲載請求権なりを定めることは可能ではないか、と考えます。
たとえば、裁判所の名義で、当該の事件については、「被告が真実であると誤信するに相当の理由があると認めたので、原告の請求を棄却する判決を出しましたが、被告が主張した事実は真実ではなかったと認められます」という広告を出すであるとか、もっと言えば、原告名義で、「裁判において損害賠償の請求は認められなかったが、被告の主張した事実が真実だという証明はなかった」という広告を出せるようにする法律を制定することも認められてよいのではないかと考えます。
言い換えれば、被害者の救済方法として、不法行為を要件としない中間的な領域についても、「アクセス権」を法律で定める余地もあると考えられます。