【第66回】私人間効力~アクセス権② #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話
不法行為を要件としない場合
まず、名誉毀損などの不法行為を要件としない、広い意味でのアクセス権、反論権について、どのような人権の調整の問題なのか、ということについて整理をしてみます。
アクセス権の主張はもともと、「送り手」と「受け手」の乖離という現象を踏まえ、「受け手」の側が、一方的な情報提供を行う「送り手」の側にアクセスして、反論や、異なった見解などを紹介させよというもので、「知る権利」の私人に対する請求権、ということになります。
この事件の相手方は新聞社でしたが、雑誌などの出版社も含めてメディア側からすると、「送り手」としての表現の自由を有しています。
論理的には、私人と私人の人権の衝突ということになりますから、法律の根拠もなく、「社会的に許容する限度を超える」わけでもない場合には、裁判所は介入しないのだ、というのは私人間効力の問題からの帰結として、理解できます。
判例の論理を突き詰めてみる
では、この両者の調整の問題として、法律で定めれば、アクセス権は行使できるのでしょうか。判例を読む限り、かなり慎重な論理展開で、法律の作り方いかんによっては、憲法違反といわれそうです。
すなわち、「この制度が認められるときは、新聞を販売・発行する者にとっては、原記事が正しく、反論文は誤りであると確信している場合でも、あるいは反論文の内容がその編集方針によれば掲載すべきでないものであっても、その掲載を強制されることになり、また、そのために本来ならば他に利用できたはずの紙面を割かなければならなくなる等の負担を強いられ」ることになるだろうという指摘をします。そして、「これらの負担が、批判的記事、ことに公的事項に関する批判的記事の掲載をちゅうちょさせ、憲法の保障する表現の自由を間接的に侵す危険につながるおそれも多分に存する」と萎縮的効果についても触れています。
個別具体的な当該事案の問題としては、いささか大げさなことを言っているので、最初、私はこの判例を勉強したときは、納得しがたいものがありました。しょせん7段抜きの広告です。記事本文に対してスペースを割けと言っているわけではなくて、新聞にはもともと広告スペースがあるのですから、編集の自由を問題とするほどのことではないはずです。
むしろ、この判例のロジックは、広告の場合に限られず、たとえば雑誌などで調査報道がなされたような場合を考えたほうが適切なようです。つまり、掲載されたのと同じようなスペースで反論させろ、ということがまかり通ってしまうと、これはさすがにメディア側の編集の自由、表現の自由に対する制約は比例原則から考えても過大と感じられますし、萎縮的効果を考えると、編集の自由の制約になるのだ、というのは一つの考え方だと思います。
そうだとすると、法律でこのような反論権を定めることだって憲法違反とも考えられます。前回、「具体的な法律がないから反論権は認められない」といっておきながら、これを認める法律を制定したら、憲法違反だ、というのはあまりにもご無体な話ですが、どうも最高裁はそのご無体なことを言っているようにも読めるといったのは、このことを指しています。
もともと一番遠い事案
ただ、そもそもサンケイ新聞事件の事案は、アクセス権を肯定するには最も困難なケースがリーディングケースになってしまったという印象は否めません。この判例でも、「政党間の批判・論評は、公共性の極めて強い事項に当たり、表現の自由の濫用にわたると認められる事項のない限り、専ら公益を図る目的に出たものというべきである」として、「送り手」の側の表現の自由のほうに重きを置くべきだとしています。価値判断としては適切であると思います。
名誉毀損と表現の自由に関するものではありますが、アメリカの判例理論で、①統治に直接かかわりあいのある公務員、政治家に関する事柄か、②公的公柄か、③まったく私的な事柄かに分類し、表現の自由の保障の度合について検討するというパブリックフィギュア・テストと呼ばれるものがあります。
まさにもっとも「送り手」の表現の自由を尊重しなければならない①に関する事案が最高裁でいきなり争われ、それがリーディングケースとなってしまっていると言えます。
そこで、名誉毀損に基づく不法行為が成立する場合だけでなく、名誉権の侵害となっているものの、何らかの法理によって不法行為としての違法性が阻却されている、違法性がなくなっている場合―この場合でも社会的名誉は低下しているわけで―に、訂正記事の掲載請求あるいは反論権の行使を求めるよう、法律で定めることはできるか、ということはなお、検討の余地があると考えられます。