風って空気の流れ 流れを自己との関連で考えてみた
まず「風」と書いてみる。風から始まる文章はどんなものなのだろうか。
風とは空気の流れであって、それ自体は物体ではない。水の流れが川であるように、風もまた見えないもので流れとしてあるものだ。流れは流体の運動の一種とも捉えられる。運動だから自動車が走っていると同じだ。高速道路の陸橋の上に立って下を眺めれば車が流れる川のように見える。あるいは映画の発明者であるリュミエール兄弟が撮った「工場の出口」では、人々がリュミエール兄弟の工場から仕事が終わって出てくる労働者たちを撮影した短編映画だ。そこから出てくる人々はかたまりとなって出てきて、人と言うよりひと波という言葉がぴったりだ。空気に意志はなくただ流れるまま、人は違うそれぞれに帰る家がある。しかし人波は風と似ている。テレビで東京の交差点が映ると、ここに写っているのは全部人なのだろうかと思う。
人間は視覚情報優位なので見えないものは、無ととらえられてしまう。風が見えるのは風自身ではなく、木々の揺れる様子によって見えるものだ。風のざわめきを聴くことによって風を感じる。より直接的には頬をつたう風の感じによって知るのだ。風自身ではなくそれが引き起こす現象を見て、風を思う。風は気圧や温度の差が生み出す空気の運動には違いない。しかしそれ以上のものを考えさせる。
精霊流しは死せる魂を川に流す行為だ。船が川の流れに乗り川上から川下へと流れてく。人々が雑踏の中を歩いていく流れではなく、ただ船は流れていく。流れるままに人を流す様子は、過ぎ去るもの、生まれては消えるものを想起させる。川は過去であり、歴史である。
私が自転車をこいで走るとき、風が頬をうつ。いまの寒い時期であれば、鋭い痛みのような風を感じる。今度は空気が運動しているのではなく、私が運動している。世界の中を走るとき、世界はそれにおおじて動くのだ。でも視点を変えただけなのかもしれない。俯瞰したカメラから撮れば、自動車の間を走る運動体に過ぎないのかもしない。帰宅を急ぐ自動車の流れの一部なのだ。