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お金と富は違うものだけど、同じようなものでもありそう

過去の記事で、私は富について書いたことがあります。一つではなく何個か書いています。たまに記事の中に出ることもあります。富について書いてみたいと思ったのは、お金について考えることが多いからです。お金とは不思議なもので、大きな額の遺産相続ともなれば、血を分けた兄弟で争いあうようになったり、はては強盗に入り人殺しまで起きてしまう。

逆にお金とは交換の単なるツールに過ぎず、大した意味はないという人もいます。難しい言い方をすれば、お金は媒介であり、実体ではないといえます。しかし、お金そのものが欲望の対象になり、もっともっととなってしまうのも人間です。そこをもう少しほぐしてみたいという思いから、富について書いてみたのです。

例えば、身体の健康とは富のうちの一つでしょう。私は毎日朝早くから散歩をします。ただ歩くだけです。それが気持ちよくて、山を見、青い空を見て歩くだけで幸福になります。私が単純だからそう思うだけかもしれません。もっと年を取って歩けなくなれば、散歩もできなくなるでしょう。私の近所にも老人は多いです。周りを見れば歩くことができることがどれほど贅沢なことか痛感されます。ごく簡単なことに見えることが大きな富であることがわかります。

歩くことは結局習慣で歩いていたかどうかが重要で、お金はなくても解決できます。逆にいくらお金を持っていても歩く習慣がなければ獲得できません。

お金で買えないものがあるのかという問いがあります。散歩の例からもその問いはずれているように思うのです。それは富とは何かという問いであるはずではなかったのでしょうか。富と似た言葉で財産という言葉もあります。財産とは預金とか、株式とか、不動産とかそういう資産と関係しています。

マルクスが言うように、富とは商品の集合体であると言い切ることもできます。マルクスの時代と現代を比較すれば、現代のほうが商品こそが富であるという感覚はますます強まっているでしょう。値段のついていないものはないかのように思えます。知識という無形のものであっても、著作権という権利をもとに貨幣によって売買可能になっています。

こうやって書いていることさえも記事を有料にすることは原理的にはできます。こうやって書いていることも、ささやかながら富を生み出していると思います。

富について書いても、私の力不足なのか、うまくはいきません。所有ということが問題なのか、それとも媒介が問題なのか、関係が力を与えているのにあたかもお金というものが力を持っているかのように錯覚する物神化が問題なのか、名指すことはできません。

山を見て暮らすことは、所有することとは違います。財産でもありません。私にとっては必要なものです。谷状になったこの町は今の季節には霧が出ることがあります。自動車で走れば視界は奪われ難儀します。大きな鉄塔が霧の中で視界に浮かび上がるとき、巨人の腕が見えてきます。そんな光景が大事に思えてきます。

どうやれば表現できるかわかりません。とりあえず富はお金と関係があるけれど、どういう関係かはうまく言えないとしめておきます。


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