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ほうとするほど長い砂浜は、また、目も届かぬ海が揺れている この世の先は異世界です
「孤独の発明」三浦雅士を読んでいました。「孤独の発明」は日本の古典を読み解いていく本です。日本の古典の研究書も多くひかれています。この中の一説のことを書いてみたくなりました。
評論の書き出しは「ほうとする程長い白浜の先は、また、目も届かぬ海が揺れている」である。とりあえず感覚的に「ぼうっと気が遠くなる」とでも押さえておけばいい。昔は「ぼうっと気が遠くなる」ような気持ちのままで人は一生を送っていたのだ。祭りはそういう中から発生したのだ、とでも受け取っておけばいい。
これだけではわからないと思います。私の強引な考えでは、この世の果てに対する想像力の問題ではないでしょうか。
この世の果てには何があるのでしょうか。地球には果てはなくどこの場所に行っても人が住んでいます。言葉も違い、社会の仕組みが違っているとはいえ、それでも人間が住んでいます。世界の果てはなく、どこにも人間が住んでいるのは、私には息が詰まる感じがします。ほかの土地の人とコミュニケーションをとるのは面白いではないかというかもしれません。でもそれは私にとって世界の果てではないのです。
狼たちは旅立ちました。もう故郷にもどることはできません。故郷は人間の土地だからです。狼が目指すのは楽園に違いありません。狼は雪で覆われた大地を、数匹の群れで疾走します。狼の尻尾は特徴的で犬とは違います。時にトウボエをしながら楽園を目指します。楽園とはどんなものなのかそれはわかりません。どこにあるのかもわかりません。ただ大地の先にあるはずのものです。
この世の果てとは大地の先にあり、山々の先にあり、大河の流れの先にあり、ビル群の先にあるものです。「ぼうっと気が遠くなる」そんな先です。それを永遠とか超越とか語ることはできるでしょう。そうではなくこの先には、「ほうとする程長い白浜の先は、また、目も届かぬ海が揺れている」ということなのです。
その先とは祭りとが連結されているというのです。私が子供のころに行った神社の夜店の先はどこにつながっていたのでしょうか。この世の果てはどう創造されるのか見てみたい気がします。