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迷うことは分岐の前に立つこと
迷うことは創造的です。とりあえず断言してみます。すると当然のことながら決断することは創造的です。2つの文が出てきます。でも2つのことは同じことを描いているとも言えます。複数の分岐があって、そのどちらにいくかと迷っているときがあって、やがて決断すると考えれば時間の経過があるだけで分岐の前で立ち止まっていることに変わりはないからです。
でも決断することになにか自分らしさを感じてしまうのもたしかです。何かを始めるという感じがして、いかめしい言葉を使えば主体が立ち上がっている感じがするからです。逆に迷っているときは一つのことに定まらない曖昧なものです。
迷うということは複数であるということです。具体的なことを単純化しないということでもあります。でも複数であるとはどういうことなのでしょうか。善と悪の間で迷う、損か得かで迷う、それらは互いに矛盾しながら、しかし単純です。どうしたら本当に迷うことができるのでしょうか。
迷うとは何かと考えながら、ドゥルーズの「「襞」 ライプニッツとバロック」を読んでみました。ドゥルーズの本は難解でよくわからないけれど、こういう事かもしれないと感じたことはあります。
ドゥルーズの様々な概念の中に線というものがあります。「意味の論理学」ではセリーと呼ばれているものだと思います。文とは主語と述語で書かれた形式です。文章は世界を横切る線です。一つの系列を作ります。
例えば私は男です。という文章があります。私はアラフォー女子です。という文章も文としては成り立ちます。しかし、私達は矛盾していると考えます。そこで可能世界を考えてみます。可能世界とは例えばカエサルがルビンコン川を渡らなかった世界を考えるものです。カエサルは男です、とカエサルはアラフォー女子ですという文が、世界が複数あるなら成り立つはずです。
文は系列をなします。複数の世界の中の部分的なものに過ぎません。分析哲学では可能世界をつなぐものとして固有名が議論されます。カエサルという固有名が複数ある可能世界をつなぐという議論です。線が収束する場所があって、男でもあり、アラフォー女子でもある点となるところです。
ドゥルーズはもっと論を進めていきます。ドゥルーズは固有名とは言わず、特異点とも、出来事とも書きます。しかし、これ以上、私には説明することは困難です。でもヒントはもらえたような気がします。ただ文章とは出来事を経由しながら世界を横切っていきます。複数とはそうやって立ち上がってくるのだと思います。