知識はつながりを生むのだ。
今朝の新聞、久しぶりにちゃんと読んだ。
朝から泣いちゃうんだろうな
新聞はいつも裏面(テレビ欄)から読んでいる。1枚めくってコロナの感染者数をチェックして、社会面にざっと目を通して、スポーツはほとんど興味がないのですっ飛ばして、総合欄と「ひと」の欄をババーッと読んで、最後に一面記事を読むのが、だいたいのルーチン。
今朝もそんな感じでめくっていたのだけど、1枚めくって「池田小」の文字を見つけたけど「ふーん20年か」だけでスルーし、一面までたどりついたところで、ダイジェストにもう一度「池田小」の文字を見て、社会面に戻った。たぶん、記事読んだら朝から泣いちゃうんだろうなと思いつつ、『家族と国家は共謀する』を読んだばかりだったので、目をそらさずに読んでみようと思った。
幼稚園の門にはさすまたがあった
わたしの20年前といえば、結婚を決めたころで、いずれ子どもを産んで親になるのかなぁなんてぼんやり考えていたころだったと思う。連日の報道がただただ痛々しく映った。
妊娠して産婦人科を選ぶときに、一番重視したのは、病院のセキュリティだった。そんなことを考えたのも、当時のこの事件のことがまだまだ印象に深く残っていたからだと思う。
息子の幼稚園には門にさすまたが置いてあった。園では毎月防災訓練をやっていた。ある月は地震、ある月は火事、ある月は不審者の侵入、ある月は全園児が園庭で遊んでる時間帯に、ある月は各教室で過ごしている時間帯など、シチュエーションを分けて、もしものときに怖がらず落ち着いて逃げられるよう、色んな場面を想定して訓練してくださっていたのを思い出す。地震や火事だけでなく、「不審者の侵入」を訓練の中に盛り込んだのも、おそらく、この事件がきっかけだったんじゃないかと思う。
苦しくても知りたかった。
少し脱線したが、記事の話に戻すと、遺族が加害者に会うことができなかったことが書かれていた。
犯した罪をどうとらえているのか。娘は悲しい目をしていたか。(中略)苦しくても知りたかった。
『家族と国家は共謀する』の中にも出てくる、被害経験の意味の付与のことなんだと思った。
意味を与えることとは、「どうしてまた、ほかでもない私(私の家族)に」への回答が与えられることである。
「私は〜の理由によって加害行為をしました」と加害者が述べる言葉が、「どうしてまた」という問いへの回答なのである。
「苦しくても知りたかった。」という遺族の言葉は、まさに、このずっとわからないままになっている「問い」への回答を知りたかった。という心の叫びなんだと思った。
たぶん、『家族と国家は共謀する』を読んでなかったら、この記事を読んでも、ここまでの考察はできなかったと思う。本のあとがきに記してあるように、
知識はつながりを生むのだ。本書によって、そんなつながりが生まれることを期待している。
今日のこの記事との出合いは、まさに、このつながりなんだと思った。