見出し画像

きれい事を言う人と言わない人

「そんなのはきれい事だ」

きれい事を言わない人がきれい事を言う人に吐き捨てる。

きれい事を言わない人は残酷な現実を見てしまった。きれい事は言ったことが無かったけど、きれい事を夢見て生きてきた。ところがきれい事を吐き出す間もなく、きれい事は所詮"きれい事"だと知らされた。

きれい事というよすがを失い、自分自身は言ったことの無い高みにあるはずのきれい事を、なぜか容易く言ってしまう人に対して、悔しさと蔑みと妬みと羨ましさを抱え、

「そんなのはきれい事だ」

そう吐き出すのがやっと。
きれい事をいとも容易く言っちゃう、未熟で無垢で情熱的な人に対しては、それ以上深く説得して自分の意見に同意させることなんか、不可能だと悟っているからだ。

きれい事を言わない人は現実主義者なのか?果たして本当に現実主義者だと言えるのか?現実を見ていれば安泰なのか?現実を見ていれば足元すくわれることはないのか?

きれい事を言わずに、ただ現実に則したことだけで生き続けるのは苦しい。

きれい事を言わない人は確かに現実を見ているかもしれない。しかし足元の石ころしか見てない可能性はある。西の空を見て明日の空模様にまで考えを巡らしていない可能性がある。

きれい事を言わない人は一部の偏った現実は熟知するが、全体像は知らない。ある種の裏切られたような気持ちから、もう知りたくないのかも知れない。全体像を知ってしまうことで自分が逃したかもしれない物の価値に気付くから。

詰まるところ、きれい事はどんどん言っていいんじゃないか。まるで「きれい事」を"汚い事"のような文脈で使っているけど、字面通りであるなら「きれい事」はポジティブなものだ。きれい事を言うやつがたまたま悪事に手を染めるから勘違いされがちだけど、きれい事自体には本来罪はない。お金を悪用するやつが悪いのであって、お金自体に罪はないのと同じだ。

普段ろくでもないヤツがたまにきれい事を言うから、きれい事は"汚い事"に成り下がる。

きれい事だけを言い続けたらどうだろう?いつしか言霊となって周りが「綺麗なこと」だらけで溢れてきそうだ。初めはもしかしたらバカにされるかもしれない。でも少なくとも、きれい事だけを言い続ける人の近くに、悪いやつらは気味悪がって寄ってこないだろう。

きれい事は馬鹿にできない。
きれい事を言わない人よりも、きれい事を堂々と言える人になりたい。