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noteの人たちはだいたい読書と映画と珈琲が好き

2023年が終わろうとしている。
僕の2023年は、はやり目で終わる。

はやり目だけならまだしも、変にのどがおかしいというか、風邪のひき始めの気だるさと頭の重さがある。

思えば今年も亀の歩みだった。いや、牛歩だった。


自分が前に進むための活動は、日々の「重要で緊急なこと」と「重要でないけど緊急なこと」をこなした上でやる必要がある。自分が前に進むための活動は、「重要だけど緊急でないこと」だ。日々の「重要で緊急なこと」と「重要でないけど緊急なこと」をこなしたら、24時間のうち残りはだいぶ少ない。睡眠は削らないので、残った時間で「重要だけど緊急でないこと」を前に進めるには、自ずと牛歩になってくる。

そもそも「重要でないけど緊急なこと」を減らしてもっと自分の時間を作りたいがために、「重要だけど緊急でないこと」を進めている。「重要だけど緊急でないこと」には時間がかかる。逆説的だけど。


生活に心のゆとりを作りたい。心のゆとりは時間のゆとりから生まれる。時間のゆとりはお金のゆとりから生まれる。お金にゆとりを感じるかどうかは価値観で異なる。基盤となる価値観の醸成は、心のゆとりを生むための近道になる。給与所得が多かれ少なかれ、価値観次第で心のゆとりに近づくことはできる。しかし同時にお金のゆとりも増えれば、つまりお金が増えれば、心のゆとりへ一層近づくことになる。

お金が増えるには時間が必要だ。少なくとも準備の時間が必要だ。あとは行動するかどうか。

時間が欲しくて時間を使う。そこが一見逆説的だけど、真実だと思う。今の僕の身分では亀の歩みでも牛歩でも仕方がない。進んでいることに相違はない。過渡期にはたいてい不測の事態が起きるもの。さもありなん。僕の場合は牛歩でも進めているだけ有難い。

そんなことをしていたら、風邪のひき始めとはやり目で年越しを迎える。はやり目を老齢の両親にうつせないので、帰省しない年越しを選んだ。


noteで過ごす年越しも悪くない。

noteをやろうと思う人には、生活に心のゆとりがある・心のゆとりを求める、そんな傾向があるんじゃないか。それはnoteの世界観が「心のゆとり」に紐づいているからじゃないかと思う。

だから心のゆとりを求める人、既に持っている人たちが、noteに集まってくる。noteの世界観が居心地よくて、わらわらと集まってくる。

「心のゆとりを求める人」は、今はゆとりが十分でないけどこれからそうなっていこうという意志のある人たち。そういった人たちは僕も含め、ある「パッケージ」に憧れ、参考にする。

その「パッケージ」というのが、「読書、映画、珈琲」だ。

「読書、映画、珈琲」をインストールするには時間のゆとりを必要とすることが多い。「心のゆとりを既に持っている人」たちはこういったパッケージをインストール済みだから、これから「心のゆとりを求める人」たちは「既に持っている人」に近づくべく「読書、映画、珈琲」をインストールする。

時系列は逆かもしれない。元々「読書、映画、珈琲」が好きだったから徐々に心のゆとりが生まれるのか、元々心のゆとりを持っていたから「読書、映画、珈琲」が好きになるのか、人によると思う。けれど、心のゆとりと「読書、映画、珈琲」というパッケージは少なくとも相関がある気がするのだ。何となくね。

僕は「珈琲」は100%インストール済み、「映画」は50%、「読書」は30%といったところ。これら3つと漠然とした「ゆとり(当時はそれがはっきりと心のゆとりであるとは認識してなかった)」とが、関係してるんだろうなとは何となく思っていた。しかし宙ぶらりんだ。

心のゆとりと「読書、映画、珈琲」とが相関するという仮説が成り立つなら、僕の場合それぞれのインジケーターが100%に程遠い分、心のゆとりにもまだ到達しづらいと言える。僕自身が、心のゆとりに向かう過渡期なのだ。


noteには「読書、映画、珈琲」のパッケージがある。それ関連のイベントは多いし、それ関連の記事も多い。そしてそれ関連のイベントや記事にはだいたい心のゆとりが感じられる。記事の筆者を見ても、心のゆとりを既に持っている人であることが多い。

つまり、
note⇔心のゆとり⇔「読書、映画、珈琲」
の相関関係は成り立つと思う。







…え、だから何?