何らかの時間に感じる眠気
何らかの時間に感じる眠気には抗えない。
たとえそれが何の時間であろうが、その時間の内容は眠気に関係がない。その内容の大小や優劣や長短や寒暖が、多少は眠気への対抗心の醸成の程度に影響を及ぼしたとしても、結果的には抗えないのだから、結論、「何らかの時間に感じる眠気には抗えない」とあまねく言ってしまって差し支えない。
眠気は数ある「抗えない感覚」のひとつ。
たとえば食欲は、生命の危機や病的なものを除けば理性で処理可能だ。実行されるまでにヒトの思考が入り込む余地がある。しかし眠気(睡眠欲)は病的でなくとも勝手に向こうから忍び寄ってくるのであって、理性で処理するものではない。
車の運転中に、食欲は我慢できるが眠気は我慢できない。
何らかの時間に感じる眠気を解消する唯一の手段は寝ることだけだ。
生命の危機や病的な状況を除き、物質的な飽和状態での食欲は、昇華という別の文化的な代替手段で解消できる。しかし眠気は他の文化的な代替手段で解消できない。何らかの時間に感じる眠気は何をしても変わらない。眠いものは眠い。結局、眠気は睡眠でしか解消できない。
生理的欲求として眠気は抗えないものだが、表材感覚(触覚)としては「くすぐったい」と「かゆい」も抗えない。「痛い」は生命の危機に関わる「痛覚」として特別なものなので、ここでの議論の対象にはならない。
仮に眠気が極致の状態で、両手を拘束された状態で「くすぐったい」「かゆい」が同時に襲ってきたら眠気は解消されるのか考えると、解消されることはなくただの地獄でしかないと思う。結局、その時の眠気もどこかで寝ない限りは残り続ける。のび太はジャイアン・スネ夫への仕返しの拷問として、「くすぐったい」「かゆい」という抗えない感覚を、今日も存分に濫用していることだろう。