自分がエッセンシャルワーカーだということでいくぶんかは救われてる
公務員の父が言っていた。
「うちは大金持ちになることはないけど、どうしようもなく困ることはないかもね」
そうなんや
と思った。
小学校低学年で観ていた「欽ちゃんの仮装大賞」。
社会現象としての「バブルが弾けた」と「お父さんが飲むビールの泡が弾けた」とを掛けた、微笑ましい(よく考えると微笑ましくはない)演目があった。幼い子が演じていたから余計にね。
うちにおいてバブルが弾けることは恐らくなかった。
周囲に一見羽振りの良さそうな家はあったけど、うちの家はそんなことなかった。旅行はほぼ行かないし外食も多くない。両親はおしゃれに何でもするタイプではない。
でも、文字通りずっとそういう生活は変わらなかったから、好況だろうと不況だろうと、うちが景気の影響を受けない家だったんだろうことは薄々分かる。
父は(母も)公務員であることで幾分か救われていたと思う。
今僕はエッセンシャルワーカーだ。
なる前から、「よし、エッセンシャルワーカーになろう」と思ってなっていない。僕の気分としては"最近"なった。
コロナ禍でエッセンシャルワーカーなる用語を知ってから、自分はエッセンシャルワーカーだと分かった。
エッセンシャルワーカーは、給与労働を続けているだけでは大金持ちになることはない。エッセンシャルワークを土台にして事業を立ち上げるなどする強者も多いが、大多数は給与労働者。
勤め先で、本質的な、欠くことのできない、必須の業務に就く。
きわめて個別性の高い仕事なのに、ずっと続けていると単調に感じかけることがある。淡白になりかけることがある。そうならないように、事あるごとに方向修正する。
(自分はどこにいるのか、どこに向かっているのか)
そうやって自分の仕事の本質を見つめ直す。
自分は弱い人間だ。弱い人間が仕事の本質を毎日見つめるのは酷だ。でも見つめ直さないと脱線しかねない。長く続けていたら、たとえ酷でも慣れてくるのかも知れない。感覚閾値が上がってきて10年前よりは(酷だなぁ)と感じにくくはなっているかも知れない。それでも酷であることに変わりはない。
危うい橋の上を渡っている。
(今日も無事に終えることができた)
そんな感慨の毎日でもある。
"エッセンシャル"と形容することでマスクされている。潜在的にそういう側面があると思う。
やっぱり危うい。
でもエッセンシャルワーカーは外部の影響をあまり受けることはない。
制度に守られている。
組織に守られている。
社会の認知に守られている。
財政的に守られている。
地域に守られている。
信頼に守られている。
大きな大きな"傘"に守られている。
多面的に危うさがある一方で、エッセンシャルワーカーは必要とされ、守ってもらっている。
自分がエッセンシャルワーカーだと分かってからは、仕事がだいぶ自分の実存に影響している。何か分からないけど(これでいい)と思えるというか。これで救われるというか。
「これをやっていることで何かの免罪符になる…」
…そんな都合のいいものではないけども、自分の自我のひとつになっているのは確か。
だからなのかどうかわからないけども、
たとえ多面的に危うさがあろうとも、
僕は自分がエッセンシャルワーカーだということで幾分か救われている。