普通の紙に書く字とホワイトボードに書く字の、クオリティがほとんど変わらないという僕のアドバンテージ
僕は字が下手だ。昔はべつに字の汚さなんてどうってことないと思っていたが、年齢を重ねるほどに僕の恥部になっていく。
丁寧に書こうとするほど、特にボールペン字は硬い机の上であればあるほど、ペン先が震えてガタガタした字になる。想像して頂けるだろうか?
子どもの時は「大人の走り書き」が当面の正解だと思った。大人には書写の授業がない。書類や文書、メモの走り書きを見て、「走り書き」を口実にすれば多少崩れていてもある程度カッコがつくと思った。
「筆記行為はあくまで何かの手段であって目的じゃない、私は今走り書きをしているんです、走り書きなんてこの程度でしょ、伝われば問題ないでしょ」――我が親の走り書きのメモを見ていると、一字一字が異口同音にそう叫んでいるように見えた。字たちは躍動してキラキラしていた。
母は自分で自分の字を「汚い」と評していたが、僕からしたら謙遜でしかなかった。今思えば母の字は確かに「美文字」ではないのかも知れないが、完全な「大人の走り書きのきれいな字」であった。
僕はたぶん中学ぐらいから、きれいな字どころか丁寧に書こうとする努力すら諦めて、「大人の走り書きのきれいな字」を目指すことにした。
人生において様々な課題に向き合う中で、多くの人は100点や120点を目指して準備し、結果、70~80点に落ち着く。それで良しとする。
しかし僕の筆記能力においては、中学時代で既に100点の字を諦め70点に安住しようとした結果、現在の能力が54点に落ち着いてしまった。
そんな僕の54点の字は、悪いことばかりではない。
厳密に言うと、悪いことが7割ぐらいではあるが、それでも悪くないことも3割弱は残っているよという、ポジティブなイメージを持っている。
ホワイトボードの字って、一般的にはきれいに書きづらい。なぜ書きづらいのかというと、手首が固定できないからだと僕は分析している。
毛筆の書き方に近い。
毛筆は通常、手首を浮かして書く(小筆は硬筆のように手首を固定して書く)。しかし何のいたずらか知らないが、僕は硬筆よりも毛筆のほうが上手かった。本当だ。ただ、今どれだけ主張しようが信ぴょう性はゼロだ。
とにかく、毛筆の苦手意識が低かった僕はホワイトボードの字においても苦手意識があまりない。
そのおかげで、僕のホワイトボードに書く字は、普通の紙に書く字とクオリティがほぼ変わらないのだ。他の人に比べて、このことは僕の大きなアドバンテージになっている。
他の人は普通の紙に書く時に比べて、ホワイトボードに書く時にクオリティが落ちるとする。このことについて僕は「ご愁傷様です」と心の中で唱える。一方僕は、普通の紙に書いてもホワイトボードに書いても、同程度のクオリティで書ける。完全に僕のアドバンテージだ。
しかし僕は大事なことを見落としている。
僕にとって両者のクオリティの差がないことは、相対的に見てディスアドバンテージにはなっていないというだけであり、絶対的に見ればホワイトボードも普通の紙の字も汚い。
そうなってくると、今回の論理の前提であった「毛筆が上手かった」という僕の主張も、完全に怪しくなってくる。
いや待て。まだ大丈夫だ。
僕は「毛筆が上手かった」とは一言も言っていない。
僕は「硬筆よりも毛筆のほうが上手かった」と言っているだけだ。
ここにうそはない。僕はうそはついていなかった。