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【創作童話】月の砂
月の砂
あなたを月に連れていくことができるのは、それはもちろん酒と音楽のどちらかで、しかもそれは断じて高級な葡萄酒や一流音楽家のピアノ演奏などではなく、場末の酒場で供される泡も立たぬ安酒や、片目の老人が錆びたハーモニカで吹き散らす木枯しのような古い流行歌であるということは、きっとあなたも幼いころに、それが誰だか名前も知らぬ悪い大人に、こっそりと教えられたことでしょう。
月帰りのその人は、きっとあなたにもいつか月の土地を踏ませてやりたいと思い、その秘密を耳うちしたのでしょうが、その人はもしかするとそのとき、幼いあなたの可愛い耳たぶに、ちいさな悪戯をしたかもしれません。ときどき耳たぶの裏にほくろを持つ人がいますが、それはほんとうはほくろではなく、月帰りのその人が埋め込んだ、一粒の黒い月の砂なのです。
それのある人は、時折、月の声が聞こえます。声といってもそれは、人の話すものとは文法が根本から異なっていて、いわば風の音や波の音のようなものです。耳の背後からチリチリと小枝を焼くような音が聞こえるときにはきっと、夜空には満月がかかっていて、月があなたの耳たぶにむかって、「はやくこい」と誘いかけているのです。そんなときは、なるべく早く月の命にしたがって、安酒を飲んで老人のハーモニカを聞き、月が雲から顔をだす頃合いを見計らって、夜空へむけて地面を蹴るべきです。
あなたの体は羽ばたくように飛んでいきます。そして、幾度も前後不覚に回転しながら、北風の匂いのする雲の何層かをくぐり抜けると、そこにはあなたの視界いっぱいに金色の丸い月が待ち受けていて、彼もやはり古い流行歌を口ずさんでいることでしょう。
終
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