今、恋愛小説を書く事

 アウエルバッハの『ミメーシス』に恋愛小説に関して、次のような記述がある。
 
 「しかしながら政治性、一般的な社会性への突破口は、まさしくこの道程において成立したのであった。つまり、やさしい情緒にあふれた、その本質からすれば全く私的な恋愛が衝突するのは、今や、悪意にみちた親戚や良心、中傷者などの反対、もしくは個人的な道徳上の障害ではなく、公共の敵、自然にもとる身分的な社会秩序なのである。(中略)十七世紀フランスの偉大な古典主義において、恋愛は、日常現実を超越した悲劇的対象のなかでも特に最高のものへとたかめられたのである。」
 
 近代の偉大な恋愛小説というのは、外的な社会秩序に対する内的な自由の肯定だった。それは封建社会の崩壊によって現れたものだった。
 
 封建社会においては強固な身分階級であるとか、制度としての結婚といったものが、社会秩序維持の為に必要だった。そうした社会が新たな社会に移行する際、内面と外面が矛盾する事になった。
 
 「恋愛」は内的な自由の発露であり、外面的な秩序の拘束に抵抗するものだった。それ故に、内面の自由を取るものは外面的には処罰され、外面的な体裁を取るものは、内面の自由を失うという二律背反に落ち込む事となった。
 
 我が国では漱石と鴎外を見ればそれがわかりやすい。漱石の『それから』において、恋愛をする事は主人公が、彼が位置している貴族社会から追い出されるのを意味していた。
 
 鴎外の私的生活は、漱石の作品の裏打ちをしている。鴎外は、社会的地位からこぼれ落ちない為に、文学者としての自分を、副業的なものへ追いやっていた。そうする事によって、鴎外は自らの貴族的地位を保った。そこでは「公」と「私」との極限的な対立が存在していた。
 
 おそらくは、近松門左衛門の心中物なども、近代小説に近い性格を持っていただろう。江戸時代の厳しい社会秩序にあって、内面の願望は「心中」という形で、彼岸に求められねばならなかった。内的な自由への願望はあったが、それを実現する場所はどこにもなかったので、死後の世界に求められる事になった。心中物にはそうした性格があったと思う。
 
 近代の恋愛小説とはそのように、内面と外面との矛盾が鋭く現れるものだった。だからこそ、それは悲劇になり得た。
 
 ※
 翻って、現在を見ると、恋愛のどこにも悲劇的な要素は存在しない。「恋愛」はどんな人間でもやっている。奨励されてさえいる。ポップソングのほとんどは恋愛を謳っている。恋愛は陳腐化し、通俗化した。
 
 歴史的に考えてみると、恋愛は、社会秩序の中に繰り入れられるものとなった。封建社会は終わり、資本主義が隆盛になり、資本主義は芸術的と言っていいほどに、高度なものにまで高められている。あらゆる欲望、物質、有形のものも無形のものも、資本主義システムに参画するものとなった。
 
 この社会においては恋愛は奨励されてさえいる。それぞれの人間の欲望は商品・サービス・金銭といった形で社会を流通する。かつてのように、恋愛は社会秩序と矛盾するものではなくなった。
 
 当然、恋愛小説という形態も変化せざるを得ない。恋愛小説は誰でも書ける。かつては一部の貴族的な、悲劇的なものを愛する精神のみが描いたのだが、今は誰でも書けるものとなった。
 
 小説に限らず、映画、音楽などで恋愛は大人気だ。そこでは社会秩序との二律背反などという事は少しも考えられない。彼らは社会に是認された上での恋愛を行う。
 
 恋愛小説は誰でも書ける。教養や洞察が欠けていても、書くのは可能だ。それはもはや「日常」だからだ。というよりも、小説そのものが「誰でも」書けるものとなった、と言った方がいいだろう。実際、流行りのタレントなどが出版社に要望されて小説を書いて発表している。小説が「日常・具体的な現実を描くもの」となって以来、日常や現実については誰しもがわかっているから、誰でも書けるものとなった。
 
 そうした小説は歴史的価値を持たないので、未来に残る事はない。ただ、今現在の人々の共感の中にのみ存在しうるだけだ。
 
 しかし、小説とか文学とかいうものが歴史的に担ってきた役割というものを考えてみると、現在、その先鋭的な形においては、どのようになっているだろうか。それを次に考えてみよう。
 
 ※
 哲学者のマーク・フィッシャーは「世界の終わりを考える方が、資本主義の終わりを考えるよりは容易い」と言っている。これは、資本主義はあらゆるものを取り込み、自己の存続を図るから、物理的に世界の終わりを考える方がたやすい、という意味だ。
 
 封建社会に対する抵抗、近代社会への移行は、例えば「恋愛」というものがその架け橋の一つとなったが、今、恋愛にその機能を求めるのは無理だろう。
 
 資本主義社会に対する抵抗は、果たしてどういう形を取るのか? それは、個々の優れた人物が、個別に試行錯誤をしている状態なので、なんとも言えないものではある。
 
 ただ兆候はある。ミシェル・ウエルベックや伊藤計劃の小説がそれである。
 
 私の理解では両者とも「一人称ニヒリズム」で書かれている。世界と取り結ぶあらゆる関係は、資本主義の中に取り入れられてしまう。だから、内面の自由は、個人の孤立した意識の中に求められるしかない。
 
 その結果、彼は世界と断絶し、孤独な意識を抱えて、世界の中で壊滅していくのを余儀なくされる。この壊滅そのものに意味を感じる事、おそらく、それだけがこの世界に対する唯一の「抵抗」と呼べるものではないか。
 
 私の好きなバンド『神聖かまってちゃん』は早い段階から、精神病を社会に対する抵抗の表現として利用していた。『神聖かまってちゃん』の「の子」は、直感的に色々な事をわかっていたのだな、と私は思う。
 
 精神を病むとはどういう事か。それは、社会が求める精神的鋳型に自らを作り変える事ができない、という事だ。明るくて、朗らかな人がいい、という価値観は社会が我々に求めるものでしかない。それを絶対的な価値観だと求める人々は、その人そのものの内面が社会と完全に溶け合わさっている為だ。
 
 水の中の水は自らを水だと認識しない。凡人が楽しみ、天才が苦しむのは、天才には自己認識というものがつきものだからだ。精神病者が自己認識を持つならば、彼はその社会に対する抵抗の機縁を持つという事になるだろう。
 
 この社会は全てのものを自らの中に取り入れる。例えば、死すらも「終活」という形で、自らの回路の中に流し込む。こうした世界にあって、この世界を抜け出すにはどんなやり方があるのか。無限回廊の中を、あたかも、走って通り抜けようとするもので、この世界にうんざりしている人間は、どこにも行き場がない。
 
 もちろん、世界に満足するのであれば、それはそれで構わない。ただ、世界に満足する人々は、世界と一致するのだから、世界が今ある水準以上のものは決して産みはしない、とは言えるだろう。
 
 恋愛小説というのも、過去の文豪が恋愛小説を書いたから、今、自分が立派な恋愛小説を書けば歴史に残るだろう、というように考えるのは間違いだ。そう考えるのは、文学が形成されていく動的な過程を知らないからだ。
 
 資本主義社会に対する抵抗は今の所、孤立した個人の内面に求められるしかない。彼が苦しむ事、その中に可能性はある。その結果、マーク・フィッシャーのように自殺に至る事もあるかもしれないが、私はそれを非難できない。むしろ、死んだように生きる事を是認する事によって、餌を貰い、生かされるよりはまだ、世界の在り方に絶望して死ぬ方がマシなのではないか。私にはそんな風に思われて仕方がない。
 
 

いいなと思ったら応援しよう!