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おかえりを言い慣れない女(短編小説/『トーキョーアナログ』より)
多種多様な業種の人たちと共にするプライベートの場で…時おりは同業者の人からも、たまに
「ゴメスさんって…
小説は書かないんですか?」
…と、聞かれることがあります。
なかなかにデリケイトな問いかけです。なにが「デリケイト」なのかと言えば──ぼくのようなコラムニストが「小説」という分野にチャレンジするという
ことは…音楽に例えると、
「ジャズピアニストがクラシックを演奏すること」
…いや、ちょっと違いますね。絵に例えると、
「抽象画家が写実的な風景画を描くこと」
…いやいや、コレは全然違います。
再び音楽に例えると、
「J-popの作曲家がクラシックの作曲を手掛ける」
…ようなもの(※コレが比較的しっくりくると
思いました)でしょうか。
一応、お断りしておきますが、なにも
「クラシックのほうがJ-popより優れている」
「コラムニストより小説家のほうが地位が高い」
…などと申しているわけではありません。
たしかに(一般論として)、コラムニストが小説を書くのは難しいけど、小説家がコラムを書くのはわりと簡単…という側面は否めません。
ですが、ぼくは「コラムニスト」という職業に誇りとプライドを持っていますし、同時に「小説家」という職業に対しても、惜しみないリスペクトの念を抱いております。
ただ、文章を構成するにあたっての方法論や発想──とどのつまり、
「使う脳の部分」
…が、まったく異なってくるのです。
(少なくとも)ぼくのコラムは、いわば
「今日のドラッグ代を稼ぐために、ふらっとジャズクラブに立ち寄り…アルトサックスを数曲ゴリゴリ吹いて、去っていく」
…チャーリーパーカーみたいなもので、その文体はかなりジャズ的であり、最初と最後のテーマ部分以外はリズム感だけに頼ったインプロビゼーション──
アドリブが大半を占めています。
したがって、どんな演奏(=コラム)に仕上がるかは、吹いてみないと(=パソコンを叩いてみないと)わからない──まさに、緻密なプロットと遠大なビジョンを要する「小説(家)」とは対極の位置にいるわけです。
しかし、そんなぼくでも「短編小説」は、何度か世に公表したことがあります。
↓は、ぼくの草野球仲間である写真家の薮田修身氏が監修を務めるネットメディア
…に掲載させていただいた短編小説です。
日常の些細事を綴った地味な私小説ではありますが、その執拗なディテール描写や切ないオチはそれなりに気に入っており、 “専門外” の実験作を発表できる場を(ノーチェックで)提供してくださった薮田氏には、心より感謝しています。
もしかすると、こうした短編を根気強く書き溜めて、整合性を(無理やり)築くジョイント的な “補足文” で紡いでいけば──ぼくにも一本の小説が書けるのかもしれませんね。
ちなみに、
「人間誰しも最低一本の小説が書ける」
…とはよく言われますが──その「最低一本の小説」とは、おそらく「自叙伝」のことだと推測するんですけど、これだけは絶対にぼくは手を出したくない。
自叙伝的小説が下手に当たってしまい、「それ以上の次回作」というプレッシャーに押しつぶされて、以降なにも書けなくなってしまった(元)同業者を、ぼくは何人も知っています。
自分自身にとっての最高傑作として「自叙伝」に勝る作品を書き上げるという作業は、並大抵のことではありません。だから、ぼくはかつての『ゴメス組』の、もっとも信頼できる幹部組員たちに、
「ぼくが死んだら、
ぼくの伝記をみんなで書いて、
どこかで出版してください」
…と、遺言を残しているのです。