僕は誕生日や何かの節目を記事にしないと発作が起きる病気を患っている。
9年目を終え、明日から10年目を迎える。よくこの仕事を続けてこれたなと思う。そんな今日、何かを残しておきたくて駆け込みで書き始めた。
去年初めて教壇に立つ人に送ったメッセージがバズった。今年1年は承認欲求みたいなものを丹念に減らしてこれた1年だったから、目につきやすいXに流すよりは、丁寧なクリックの上、読みたいと思ってくれる人に読んでもらえるnoteを志そうと思う。
でもワンチャンバズれ。
書ける量が無限だから、寝不足のまま10年目がスタートする可能性もある。まぁそれもまたよし、想いは冷めると急に言葉にならなくなるから。
今年1年間子ども達に言い続けたことがある。
「長い話をするやつ、オチのない話をするやつ、自分の話をするやつは仕事ができない大人だよ」と。
それではまず僕の初任の頃の話を15分ほど話そうと思う。
4月1日、前日までの学生生活というぬるま湯から一気に社会という極寒の海に投げ込まれた僕は、職員会議で聞いたことない言葉を話す分掌長の先生達に対して、聞いたことない言葉で反論している先生達を見てこう思った。「聞いたことない言葉だ」って。その後、僕の指導教官の先生が持ち前の面倒見の良さと情熱で勤務時間が終わった後も長いこと''補講''をしてくださったのを覚えている。聞いたことのない言葉を、聞いたことのないやさしい言葉に直して教えてくれた。22時まで掛かった補講を終えて帰りの車でこう思った。「聞いたことない言葉だった」って。
指導教官はちょうど10個上の同じ陸上部を見る先生で、やさしいんだか厳しいんだかよくわからないけれど、とにかく色んなことが見える人だった。初めてやった授業の後、みんながいる職員室の真ん中で「何がしたいかわからねぇ」とブチ切れられて以降、授業を見られる毎週火曜日の4時間目が嫌で嫌で仕方なく、事後研修のある5時間目を待つ給食はいつも味がしなかった。
朝の6時30分から公園で朝練をやると言い出すものだから3年間毎日早起きだった。夜も遅くまで授業の話をした。長い休みもオフは少なく、しまいには同じサッカー人だから休みの日もサッカーをしたりとずっと一緒にいる人だった。
互いに異動した後も僕が大きな授業をする度に観に来てくれて、僕が気づかないようなフィードバックをくれた。でも最後には「すごいよ、勉強になった」と言ってくれる人だった。
僕はこの人のおかげで今もこうしてこの仕事を、保健体育をおもしろがっていられると思っている。またいつか一緒に働きたい夢もある。今もずっと変わらず尊敬する人に出逢えた1年目、みんなにもそんな出逢いがありますように。
僕が指導教官になった話
8年目の去年、僕の分掌に初任研指導がついた。指導教官である。
初任者の男の子と僕にはちょっと不思議な縁があった。
彼は僕の弟の高校のサッカー部の後輩で、弟のサッカーを毎試合観に行っていた僕と彼の出逢いは高校1年生の時にさかのぼる。
そこから弟を追って同じ大学に入学した彼は、早くから教員になりたいんだと現役で教員をしている僕に連絡をくれることがあった。教採の話や授業の話、「いつか一緒に働くのが夢なんです」なんて言ってくれるやつだった。
ちなみに僕が弟の大学のレポートを書いていた時があって、弟はレポートを後輩に回していたから単位まで僕が取らせていた可能性がある。
そんな彼が初任で配属されるタイミングで僕が今の学校に異動した縁がある。
「いきなり夢が叶いました」彼にとっての夢は僕にとっても嬉しいものだった。
だからだ。
僕が何もわからず不安で仕方のなかった初任の時に、そばにいてほしかった先生の姿はどんな姿か?ほしかったアドバイスは何か?許してほしかったチャレンジは何か?誰がやってもおもしろい保健体育を、もっとおもしろくするために僕は彼に何を伝えようか?
そんなことを考えながら過ごした1年間のレポート(授業研の時に毎回送っていたもの)が残っていたから紹介したい。
長いからここは読まなくてもいいけど。
初めて教壇に立つ人に僕はどんな声が掛けられただろう
僕の9年目、彼の2年目は同じ学年、隣のクラスで担任をすることになった。そしてそれぞれが保健体育で生徒を夢中にさせた1年だった。
素敵だなと思うことは僕の真似をしているようで、僕とも違うこと。彼は彼なりにやりたいことをやっている。そしてそれがちゃんと子ども達のためになっていることだ。
卒業式の夜、学年で泊まりに行った熱海のホテルのサウナで2人で長いこと話をしている中で気づいたことがある。
彼は謙虚で素直な人なのに、それに霞まないちゃんとした情熱がある先生だった。自分はこうしたいを常に言える。
そういえば、4月の夜遅くに教室掲示を飾っている時にもふらっとやってきて1時間ぐらい話をした時もそう。彼は自分のこうしたいを。僕は長くて、オチのない自分の話をしたが、彼はいつも聴いてくれた。きっと素直な人はよく伸びる。
初めて教壇に立つ人に僕はどんな声が掛けられただろう
僕にはきっとたいした言葉は掛けられなかったけれど、まとまらなかった言葉の先で彼は自信をもって3年目を迎えようとしているのだから、想いが溢れちゃえばきっとどんな声もちゃんと届くのであろう。
あえて明日から教壇に立つ人に言葉を送るとしたら、「やりたいようにやりなよ」だろうか。きっとみんな先生になりたいと思った人達だから、何かやりたい教育があったことだろうし。
エピローグ
「何がしたいかわからねぇ」あの日、職員室で掛けられた言葉は僕の人生の中で聞いたことのない言葉だった。きっとこれまでの人生でそう思われることはあっても、気を遣われて僕にそんなことを言ってくれる人はいなかった。初めて聞いた言葉にびっくりしたけれど、何かを選択する上で目的を明確にすることは大切だということを忘れていた。ついネットで見つけたおもしろそうなアクティビティに走り、目的を見失っていた矢先に掛けられた聞いたことのない言葉だった。
この話には続きがある。放課後、職員室の後ろの共有パソコンで落ち込んで仕事をしていると指導教官が心配して来てくれた。「まだ引きずってんのかよ。いいんだよ、やりたいようにやれば」これまで誰かの顔色を伺って、無難に生きてきた僕には誰も掛けてくれたことがない聞いたことのないやさしい言葉だった。
9年間、そのおもしろさを前に辞められずにいるんだからきっと学校はおもしろい。それはきっと10年目にも1年目にもきっと。
もうすぐ春ですね。