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見えている僕らは見えているのか?

本を読もうと思った。

何の事はない。最近好んで聴いてるPodcast「スポーツが憂鬱な夜に」の2人、同世代の河内さん、井筒さんの知的なお喋りに惹かれ、その思考量と言葉の多さに憧れた事に他ならない。

2人はサッカー人でありながら、文化系パーソンであり、ようやく見つけた僕のありたいかっこよさの延長線上にいる人達だと知る。30代に突入し、目指すべき「かっこよさ」をどこに置くかに迷っていたのだが、どうやら思考の多さと言葉の多さを今の自分はかっこいいと感じるらしい。

サッカーが上手いがかっこいいだった10代、SNSで有名になることに必死だった20代、今、色んなあきらめも通って、自分のかっこよさは少しずつ内側に向き始めているのがわかる。ただまだ少しだけ残る若さが、「知的に見られたい」と外側への自分を満たしたい欲として現れることがあるので、自分はなぜ言葉を増やし、思考を巡らせ続けたいのかは日々問いたい課題でもある。

2人はとてもたくさんの本を読んでおり、「本を読むやつはかっこいいと思っている」と話をしていることから、では僕も本を読もうと思った。安直ではあるが、趣味もなく、時間も持て余していたことだしちょうどいい。

かいけつゾロリと星新一のショートショートしか読んでこなかった人生であるため、「読書が好き」とプロフィールに書くにはやや誇張が過ぎる。

では今日から読書家を名乗るには村上春樹だろうと、図書館の小説コーナー「む」に辿り着いて3分後にはそこを後にした。

今ではない、と。

哲学やら、心理学やら興味のありそうなコーナーを素通りし、馴染みのないアートのコーナーにふと目を向ける。

「どういうことやねん」

何かがビビッと来たんだろう。偶然と純粋な疑問と共に本を手に取り、読み始め、眠る前も起きてすぐにもあれよあれよと読み進め、今こうして何か自分の言葉とセットにして残しておきたいと思い立った。

この世の行為でもっとも苦手な読書感想文を書いてみたいと思った不思議がある。良い本にはきっとそんな力がある。中学校の3年間は毎年ネットに転がっていたライト兄弟の感想文を写経しただけだから、これが自分の意志で書く初めての読書感想文である。

これに関しては今だ、と。

見えている僕らは見えているのか?

読書感想文なんて書いたことがなければ、書き方も習ったことがないから気になった言葉から引用し、感じたことを書いてみる。最後に大したことを書ける自信はないが、この本を手にとってくれる人がいるといい。

読書感想文はあらすじを書く必要があるのかどうかもわからないのだが、作者川内有緒さんとその友人たちとが全盲の白鳥建二さんとあらゆるアートを見にいくお話である。

川内さんや白鳥さんらが繰り広げる思考や紡ぐ言葉、障がいをもつことや人生への解釈がどれも素敵で、「この本を読んでくれ」とおすすめすればこの記事はここで終わりにできるのだけれど、自分自身から湧き上がった「感動した」を僕はもう少し細かな言葉にしてみたくて、このまま書き続けてみることにする。

「じゃあ、なにが見えるのか教えてください」

白鳥さんは「耳」でアートを見る。

鑑賞の仕方にノウハウこそあれど、正解のない解釈のやり取りを楽しむ美術鑑賞者である。

「いやあ、正しい作品解説よりも、見ているひとが受けた印象とか、思い出とかを知りたいんですよ」などと言うではないか。

そうか、アート鑑賞の楽しみ方に正解はないのかと知ったのがひとつの驚きであった。僕は当然、美術など通ってきていないため評論家やその道の教養のある大人が作品に対して付ける価値通りの楽しみ方はできない。これがアートへの敷居が高く感じる理由であり、これまでそこに関心をもてずにいた理由でもあるだろう。ただ、アートを見て、そこから何を感じ取り、どんな感情を得たのか、言葉にすることはできる。

ものを見るうえで不可欠な役割を果たすのは事前にストックされた知識や経験、つまり脳内の情報である。わたしたちは、景色でもアートでもひとの顔でも、すべてを自身の経験や思い出をベースにして解析し、理解する。…このようにわたしたちは、過去の経験やデータベースを巧みに利用しながら、目の前の視覚情報を脳内で取捨選択し、補正し、理解している。

つまりはアートは経験や思い出によって幾つにも見え方が変わる。正解がないことを約束された同士が何にも縛られることなく、アートを肴に「自分と目の前のアート」をテーマにお喋りをする、そこに楽しさがあるという。それぞれのストーリーに支えられる見え方に同じものがないのであれば、「私が正しさよ」なんて誰が言えよう。

もちろん美術的な教養をもち、作品に精通した人が導くパブリックな正解もある。そんな正解を求めることも高次な楽しみ方のひとつであることも理解している。ただし、初めから見え方のそれらしさばかりを求め、私の目ではなく、あたなの目に見えたものを通して「見えた」と感じてしまうのであればそれは本当に見えていると呼べるのだろうか?

作者はこれまでアートを見て「面白かったね」「そうだね」ぐらいの感想から、目の見えない白鳥さんとの鑑賞を通して、自身の目の解像度が上がっていくことを実感したという。誰かに伝えようと言葉にしようとして初めて、自分の目で見ることができたということだろう。

それは僕にとってとても興味深い話であった。サッカーをしていても、教育をしていても、とりあえずのそれらしさを求めて、情報を掻き集める毎日である。見えていないことが不安なのだ。誰かの目であっても、見えるように感じたい、それは僕に限った話ではない。

わからないことを、「おもしろいや」ともう少しだけ楽しむ余裕を、もの凄いスピードで進んでいく時代が許してくれればいいのにと思う。ハウツーが多過ぎるのだ。

果たして、見ている僕らは見えているのか?

「そのひとがそのひとのままで作品を見たり、作ったりすることが尊いと思うんだ」

僕が見るこの世界は僕の目で見ているのだろうか?

僕らは障がいに何を期待するのか?


最近では、パラリンピックや24時間テレビを通して、身体に何かしらのハンディを抱える人たちの挑戦を見てきた。僕の場合それを好んで見てきた節がある。

偏(ひとえ)に、「感動」を求めたものであることと理解しているが、「感動」というとても複雑な感情をもう少し紐解き、丁寧に言葉にしてみたい。

まず、僕の中に「障がいを抱える人たちは当然のように苦労を抱えて生きているだろうから、それを乗り超えハンディを武器にした何かをもっていてもらいたい」という思いがあることがわかった。それは別に最低の感情というわけではないだろうが、もう少し深く掘ってみると、どこか自身の健常性がゆえに感じる相対的な感情があるようで嫌な感じがする。

本書にはこんな一節がある。

短絡的なわたしは、白鳥さんは視覚情報がないぶん聴覚などの感覚はめちゃくちゃ鋭いに違いない、ほかの誰もが気づかないようなことを発見したりして……、そうしたら面白い展開になるな、うふふふ、という期待を勝手に膨らませていたが、白鳥さんはあっさりとそれを否定した。「見えないからこそ感じるものがあるだろうってよく言われるんだよねー。そりゃあ、見えないから感じるものはありますよ。でも、見えないから感じることは、見えるから感じることと並列だと思ってるんだよ。そこにどういう差があるんだってツッコミたくなる。見えないからこそ見えることがあるって言うひとは、たぶん盲人を美化しているんじゃないかなあ」-ボールに仕込まれた鈴の音などを頼りに自在にボールを操るブラインドサッカーの選手や、ピアニストの辻井伸行さんの世界的活躍などを見るにつけ、「全盲のひとは抜きんでた感覚を持っている」という偏見が自分の中にはびこっていたようで、恥ずかしかった。「あのね、当たり前だけどさあ、全盲のひとでも感覚が鋭いひともいるし、そうじゃないひともいるんだよ。運動神経がいいひともいれば、音楽の才能があるひともいる。それでいうと、自分は普通」と白鳥さんは言う。

本を手に取ることがなければきっと、これからも障がいを抱える人達に特別な何かを期待していただろうし、特別な何かを見出し幸せになってもらいたいという思いで要らぬ負担をかけてしまったかもしれない。

いゃ待て、障がいをもっている人達はそもそも幸せではないと勝手に決めつけているのは僕自身ではないのか。

「自分には、目が見えないという状態が普通で、”見える”という状態がわからないから、”見えないひとは苦労する”と言われても、その意味がわからなかった」

実際、白鳥さんは幼い頃から日常生活に大きな不自由を感じていなかったというのだが、周囲からは「大変だね」「かわいそう」と声を掛け続けられ、その度に何が大変なのか違和感を覚えたという。

日本に限らず、障がいを抱える人を希有な目で見てきた時代があった。きっと言われのない差別や偏見を受けてきた人もいる。

そこから先人の行為を恥ずかしさと受け止め、世界は少しずつやさしくなり始めた。珍しさから生きずらさを感じた人は特別な対象へとなった。困っている人を見たら、親切にしなければいけない、助けてあげなければならない、そんな教育を受けてきた。

だからか、そんな日本で育つといつの間にかやさしさの中に、優生思考が生まれる。作者の中にもあって、僕の中にもきっとそれがある。やさしい顔した世界で育ちながら、純度100%のやさしさをもつことの難しさを感じている。

それを見ていると、なんだかんだとわかったようなことを書いた自分の中にこそ、ある種の差別意識が息づいていることに気がついた。五年前、娘を妊娠中のこと。障害がある子が生まれてくる可能性を医師から指摘されたわたしは、その夜号泣した。あのときに感じた大きな動揺。あれは、障害をもつひとに対する差別意識ではなかったと言い切れるのかー。

きっと作者が妊娠中に感じたであろう生まれてくる子どもの将来や障がいをもつ親になることへの不安へを感じて泣いた時、当事者になることをひどく恐れた内なる差別は例に漏れず僕にも当てはまる。パラリンピックや24時間テレビを見て感動をしたくとも、その感動の対象になりたいとは思っていない自分にも内なる差別がある。

「誰がなにに対してどれぐらい優生思想があるかというのは、俺は研究者ではないからわからないけど、ほとんどのひとになんらかのレベルの優生思想はあるんじゃないかと思う」

白鳥さん自身にも優生思想はあったという。できないひとに対してのマイナスイメージをもち、盲人らしくないことに憧れ、そのらしくない行動の根底には『健常者に近づくことはいいことだ』という一種の差別意識や優生思想を感じたという。

「うん、だから優生思想なんてとんでもない、差別はダメだ、って言うんじゃなくて、程度の差はあれ、差別や優生思想は自分の中にもある、まずはそこから始めないといけないと俺は思う」

僕は教員として、何かできないことをできるようになることを善として子ども達に求めてきたこれまでがある。できないことやもっていないこと、そんなことを悪だとは言わないまでも、それに抗い、成長していくことがよいとしてきた。ただ、「できる」「できない」を生きることの価値に置くからこそ、生きづらさを抱えてしまうひとが生まれてしまうことだって理解しなければならないのだ。

そんな理解が進むと、少しずつ自分の中の偏見は言葉という形を帯びてくる。

障がいをもつ人の中にもきっと僕のような怠け者はいるし、障がいをもつ人皆が特別な才能をもつわけではない。それは僕だって君だって同じじゃないか。みんなが何者になれるわけじゃない。

でも、そもそも何者でもない自分が特別なのだろう。

人とは違う自分が、もうすでに特別なんだって。

人とは違う、上も下もない世の中を、力強く生きてほしい。

僕はみんなの人生に期待している。

この本を選んだ理由もきっとそうだ


セレンディピティ(思いもよらなかった偶然がもたらす幸運)

この本を手に取ったのは、そんな直感をもとにした偶然だったと説明できるのだが、おそらく普段から障がいをもつ人が抱える生きづらさや差別、偏見に興味があった。つまりは、偶然を装って、自ら願って手に取りにいったのだと思う。

僕の興味には偽善とは違う、困っているであろう人を「助けてあげたい」お節介じみた欲があった。

別に最低ってわけではないし、この本から学んでもなお手に取った当時の理由を肯定してあげたい。

ただひとつ変わったなと感じる自分は、障がいの有無に関わらず、知りもしないのに誰だかの見方や教育を通して「かわいそうだ」と感じる人を作るようになってしまっていたことに気づいた。

10年近く教員をして人を導く立場になって、障がいを抱える人は、親の離婚を経験をした子どもは、無条件にかわいそう、そんな見え方のするコンタクトをつけてしまっている。

もちろん困っている人は全員助けたい。noteを書き続ける理由のひとつでもある。

でもさ、お前が決めんなよ。

人の幸せとか。人の辛さとか。

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