僕とバレーボール
まずは教育の話からしよう。
学校の価値が相対的に下がってきているという。学校に行かなければ賢くなれない、就職ができない、資格が取れない、友達ができない時代はそれだけで学校に行く理由があった。しかし、誰しもが感じるように学校で学んだことのうち、知識やスキルに属する部分は社会に出て役に立つということはほとんどない。社会が必要とする知識は目まぐるしく移り変わり、かつ必要な知識はネットでも手に入れることが可能になってきたというではないか。
学校で手に入れた知識で生活しなければいけない時代ではなくなってきた。事実、学校で働く僕ですら子ども達に伝えることのソースはネットであることが多いのだから、酒の場でベテラン勢がこぞって「先生の立場が弱くなった」と嘆くのもわけない。そして、僕等よりもよほど優秀なAIが今、校門を開けようとしている。
集会の話がわかりにくいで有名な先生の話が急にわかりやすくなった。話も短く、主旨も伝わる。子ども達には好評だった。聞けばChat GPTが作成した文だったという落ちがある。
「なんかいつもめっちゃ話がわかりにくい人がいるのね、尺の割に落ち弱めで。何を伝えたいんだと。そしたらある日急に話がわかりやすくなったのよ。時間も短いし、それに見合う落ちもある。子どもも『なんか今日わかりやすかったですね』なんて口々に言うの。やればできるやんって。そしたら話の最後に『何か違和感を感じませんか?この話、実はChat GTPが作った文なんです』って。なるほど、ついに教育までもAIに奪われてしまう時代になったのかって。一番の違和感はその後10回は言ってたであろうChat GTPだったんだけどね。GPTです先生って」
僕はこのエピソードトークを擦るように使い回しているのだけど、この手の「仕事AIに奪われちゃいました」系のアイロニカルな話はエピソードトークのテンプレとしては使いやすいので今後しばらく流行りそうである。ただ本当に奪われちゃったら「山田さんのところの息子さんAIに仕事奪われちゃったらしいわよ」と笑っていられない近所の噂話の格好の餌食になりそうなので、なんとしても教育だけはAIに奪われてたまるかと強い気持ちで生きている。
ちなみにここまではAIが書いた。
これから先、多くの仕事がAIに取って代わられると言われている。
その中でも僕等、教員の仕事は残り続けるのではないかと言われている。
僕もそう信じて教育にあたっている。
そう信じている理由はいくつもある。
だが信じたい理由はひとつである。
それは人が見せる人らしさによって人は育つと信じているからである。
僕等は教員で子どもの教育に関わる立場から正しくあることを求められる。ただ教員も人である限り、正しさを求めて行く過程の中でどうしても失敗を経験することがある。あの子の表情の理由が正しく読み取れず、かけた言葉が届かなかったり、よかれと思って差し伸べた手が今ではなかったり。僕もそんな失敗をたくさん通ってきた。一方、AIは過去の膨大なデータからおそらく失敗をしない。失敗をしないというよりは、間違わないと表現しよう。ただ、結果的にその場では失敗だったけれど、自分のために動いてくれた大人の姿や想いが重すぎて長くなりすぎたあの話、そんな不完全さを通した人らしさによって人は育つのだと信じている。
AIはその場はきっと間違えない。白か黒かを間違えない。ただ白にも黒にもならない灰色の部分を感じ取り、拾って認めてあげられるところには人らしさがあり、その不完全さを子どもは感覚的に感じて育っていく。真っ白であることを求められた時に黒でありたい気持ちがわかる人の温かさに許され人は育つ。
もう少しだけ。学力の高さが求められた社会から、非認知能力が求められる社会になった。実際に僕の学校でも部活動前の5分間、AIがそれぞれの苦手や習熟度を判断して問題を提示してくれる個別最適化された学びの時間があるのだけれど、知識の獲得、学力の向上だけを目指すのであればこれが一番よい。こういう仕事やデータの処理等、学校現場にはAIでできる仕事がいくらでもあるのでそこら辺はいいから早く奪いに来いよって思っている。ただ、それだけではこれから社会に出ていく子どもを育てられないからAIとの共存をしていかなければいけないという話なのである。
これまでの教育はやはり学力偏重だったから、あれこれ指示してさせたり、教えたことをその通りにさせたりして社会が求められる人材を育ててきた。ただそういった認知能力を育てるのと非認知能力を育てるのとでは原理が異なる。
ゆえに指示待ち人間のようなワードがここ数年で三者面談での流行り言葉になったのである。「先生、うちの子本当に指示待ち人間なんですぅ。丁寧に育ててきたつもりなのになんでなんですかねぇもう困っちゃう」「(丁寧に育ててきたつもりだからかな。大人が子どもを信頼してないんだきっと、だから転ぶ前にあれこれ手を出してしまう。任せるから育つのに)本当、難しいですよね子育てって、お母さんってほんと大変です」「先生も早く結婚してくださいね」「そうっすね(なるほど、こういうところか)」
では子どもはどう育てていくべきか?
それは知らん。
知らんけど、どう育てていくべきか?という難しい問いをそれぞれがもち、自分の教科を通して生活が豊かになるにつれて失われてきた大事な力をどう育てていくか、目の前の子ども達をよく見て、上手くいかなさを受容しながら答えのないことに挑戦していくのである。教育とはそういうことであろう。
そうだ、今回は3年生としたバレーボールの話をするんだった。AIに書かせればこんなにも長くならなかったのに。
バレーボールとはどんなスポーツか?
僕の授業はそのスポーツの本質的な姿はどこにあるのか?を問うところからスタートします。
「バレーボールってどんなスポーツ?」単元の始まりに初めて子どもと言葉を交わした時に、それぞれがもつ断片的な経験やイメージ、言葉を使ってそのスポーツの本質的な姿を捉え直し、スーッと頭の中に広がるような理解にするためには僕自身がそのスポーツをどう理解し、情報過多にならないようどこまでを伝えるかが大事だと思っています。
そこで僕と子ども達はバレーボールをこんなスポーツだと捉え、単元を構想していくこととしました。
それを単元12時間の中で、楽しくない時間を1分たりとも作ることなく育てていけるかを目標に授業を考えていきます。
それでは1時間ずつ見ていきましょう。長いんで先にコーヒー入れてきてくださいね。
1時間目「バレーボールってどんなスポーツ?」
「例えば初めてバレーボールをやる人にバレーボールってどんなスポーツかを伝えるとしたらどう説明する?」
「ボールを落としたらダメ」
「そうね。ということは攻撃の目的は?」
「相手のコートにボールを落とす」
「だね。じゃあバレーボール特有の制約、ルールって何がある?」
「ボールをキャッチできない」「ネットがある」「3球以内に相手コートに返さないといけない」
「もうそれでバレーだね」
「例えばサッカーとかバスケみたいなゴール型のスポーツと違うところは?」
「時間が決まってるかどうか」
「そうね、ネット型は規定の得点に早く達した方が勝ちだし」
「接触がない」
「それもそうだね。誰でも安全にプレーできるのはいいよね」
「なんか、サッカーとかバスケとかはドリブルできるからボール持ってから立て直せるけど、バレーは1回しか触れないからミスすると挽回が難しい」
「なにそれ頭良っ、確かに。だからよりボールが飛んでくる前の準備の質が大事になるね。ボールない時にスペースを小さくしておくこととかもいい準備って言えるね」
「もうバレーできそうじゃん。説明終わりでいい?もっと喋ろ「大丈夫でーす!」
単元1時間目はバレーボールがどんなスポーツかを3分間で説明しオリエンテーションを終えました。3年生ではありますが、1年生ではかじった程度のバレーボールということ。どうしても単元のはじめにはたくさんの情報を与えて興味を引きたくなりますが、おもしろいもので情報は与えるほどに入らない。今必要なことだけを選んで伝えられるのもセンスです。
授業の構成は個人の技能にフォーカスしたドリル、(制約のあるミニゲーム)、メインゲームという流れで組んでいきます。
【今日のドリル】
ドリルは個人、ペア、グループと数えたら単元全体で20種類ぐらいありました。たくさんの運動の中から共通項となるコツを探索していくねらいがあります。
今日のドリルのテーマは「とにかくボールを落とさない」こと。アンダーやオーバーは取り扱わず、様々な制約の中から自然と身体が運ばれる2人組のドリルを行いました。
ドリル1:1バウンドさせてキャッチ。2バウンド目を落とさない(できるところまで距離を伸ばす)
ドリル2:うつ伏せ(仰向け)になって1バウンド目がついたら立ち上がりキャッチ
ドリル3:後ろを向いてボールが1バウンドした音を聞いたら振り向いてキャッチ
ドリル4:後ろ向きで背中側からボールを配球してもらい頭の上を通過したボールが1バウンドしたらキャッチ
ドリル5:思いっきり上に投げて①頭の上でキャッチ②首より、ひざより上でキャッチ③地面から20cmでキャッチ
→ボールの高さに応じて自然とオーバー、アンダーの手の出方になりました。
【今日のメインゲーム:全員バレーボール】
15対15でカバーの人数が多いのが特徴です。ボールが1つだと29人は触れない時間があるので6つぐらい同時に配球します。ミカサ、モルテン、ソフトバレーボール、風船を使います。
オープニングの生徒だけは名前を呼んでから配球すると、その近くの生徒はオープニングの生徒のカバーに入る様子が見られました。
僕がずっと疑問に思っていたのは「触れる回数が皆同じだけ必要は本当か?」でした。たくさん触りたい子もいれば、中には触りたくない子もいる。1回来るのだって勘弁してくれよって子がいる、でもその1回が上手く返せたことがとても嬉しい子もいる。ミスしても拾ってくれる人数が多ければ、ミスでなくなるゲーム構造を作りたい、そう考えたゲームでした。
スペースを狭くして守る広さを狭くして守備のタスクを減らすのではなく、人を増やして守備のタスクを減らす側のアプローチです。
1人1人が触れる回数は少なくてもカバーできる人数が多い方に今日はフォーカスしました。
帰りに際にある子が言った「ミスがミスにならなくなって嬉しかったです」はバレーボールの醍醐味だと感じました。
2時間目「制約ドリル〜勝手にオーバー、アンダー〜」
この授業のはじめには、3分だけちょっと小難しい話をしました。運動は自ら探索していくものだよと。
【今日のドリル】
今日のドリルのテーマは様々な制約の中から「勝手にオーバー、アンダーになっちゃう」をテーマに学習を進めました。
ドリル6:3人組で真ん中に鬼を置きます。鬼の頭を超えてAからBに配球したところからスタートして、Bは鬼の頭を超えてAに返球します。鬼に触られたら交代です。
→鬼に触られないように自然と山なりのパスが生まれました。応用できるグループは連続でパスを続けていました。
ドリル7:3人組の真ん中の生徒はフラフープを持ちます。フラフープの高さはランダムです。BはAから配球されたボールをフラフープを通してAに返球します。3回通ったら交代です。
→フラフープの高さに応じてアンダーとオーバーが自然と発生していました。膝ついてオーバーしている生徒もいましたがそれも探索です笑
ドリル8:真ん中に鬼を2人入れて4対2を行います。(先ほどの3人組を2つくっつける、サッカーの鳥かごのイメージ)
→実際バレーボールでは相手から奪われるプレッシャーはかからないですが、鬼を超えての対岸へのパスはネットの高さと似たようなものだと思います。
オリジナルで作ったドリルアクティビティにしてはおもしろく、ねらった通りに「勝手にオーバー、アンダーになっちゃう」を誘発することができましたが、制約にこだわりすぎて、生徒の実態よりも自分のやりたいことを優先したがために、ドリルの構造云々の前に「ボールを下投げで投げられない」「ボールが怖い」生徒にとってはただただ難しく、ずっとボールがあっち行ったりこっち行ったりするようなドリルになってしまいました。
制約のデザインよりも先に、実態を把握して1人1つの直上トスのようなものから入ればよかったかなという反省があります。
【今日のメインゲーム:7人制バレーボール】
・男女混合の7人制
・ゲームのオープニングは教員の配球
僕はバレーボールの授業でおもしろくないと感じる瞬間は
・テンポ感が悪い
・ボールがめっちゃ落ちる
・サーブが入らない
だと考えています。ミスした後、ボールが落ちた後、サーブが入らなかった後、次のプレーが始まるまでの10秒程度の間延びした時間がミスした子どもには辛いし、周りも気を遣って微妙な空気が流れるしで嫌いなので、プレー時間をとにかく確保するために初期段階のゲームはゲームのオープニングの配球を教員がやるようにデザインしました。
ミスしたとしてもすぐに名前を呼んで配球して、プレー間をできるだけシームレスにしようと考えました。前回の授業ではT2がいたので間髪入れずにミスしてしまった子に配球することで即時の修正を図れるようにしたのですが、今回は僕1人での配球だったので、配球が間に合わずにテンポ感が悪くなる時間がありました。
習熟してくるとラリーの時間も長くなるためその必要もないのですが、学習初期では思わぬ落とし穴でした。
このゲーム、ミスが続き、テンポの悪い時間が生まれてくるとボールを触りたい男子が前、触りたくない女子が後ろと男女混合のゲームなのにコート内では男子と女子が分離するようになりました。運動経験のない女子に多かったのがアンダー時に腕を振ってしまいボールが後ろに飛んでしまうこと、また落下地点に入れないことでした。
スペースを埋める感覚(スピード、アジリティ、予測等)をもっている生徒は現状女子よりも男子の方が多いため、同じコートの中で守るべきスペースを予め設定する必要があったと感じました。
振り返りにあった「前に出るべきかどうかの判断が難しい」という子どもの感想からも、今はそこの思考からは解放してあげて来たボールを返すというタスクに集中させてもいいかもしれないと感じました。初期段階は予めエリアを設定してもよいかもしれないです。
ゲーム後半、あまりにネット際の男子だけでバレーボールが展開されていたので男子と女子の位置を変えたら急にゲームがよくなりました。
その変更に気づくまでの時間、苦手な子がただただたくさん失敗をしてしまうゲームになってしまったことが今回の授業の失敗です。失敗を経験させることは大事ですが、技能に頼らずとも楽しめるゲームデザインが無かった意味ではいらない失敗だったかもしれません。
「先生、今日全然上手くいかなくて泣きそうです」
「ごめん、これはね俺が悪いのよ。今日上手くいなかった理由は俺のゲームデザインにあるのよ。これは一回原因を俺に返しちゃった方が楽よ」
授業の終わりにはいつも感想と授業をよくするためのフィードバックを送ってもらうんですが、子ども達がたくさんアイデアをくれます。授業は一緒に作っていくものというスタンスがいいなと思ってます。
3時間目「個人ドリルいろいろ」
3年前の僕のツイートが誰かにリツイートされてタイムラインに流れて来ました(まだTwitter、ツイートと言ってしまうのにXのアイコンをタップすることには慣れてしまった自分がいます)
偉そうですね。ただ過去の自分の学びの上にある今の自分なので時折こうして振り返ることは大事だなと思います。
その上で結果的に今回の単元ではドリルに時間をかけることを選んでいます。僕の中での正しさや哲学は学びの量とともに移ろうのですが、大事だと思うことを疑うことなく選ぶのではなく、大事だとはわかりつつあえて選ばないことができるのもまた人生の深まりなのだと。こういうのが偉そうですね。
【今日のドリル】
前回は2人組のドリルから学習に入ったので今回は個人ドリルに時間をかけました。
ドリル9:オーバーの直上トス(①普通②落ちてくるミカサ、モルテンの文字の位置を変えずに③トスしたら床タッチ④1回ごと体の向きを180度変える⑤寝ながら)
→サッカーのリフティングと同じような位置づけなんでしょうか?自分の身体の位置とボールの位置、ボールの触り方をコンマ何秒、次のボールが来るまでに何度も修正できるシンプルだけど大事なトレーニングですね。
ドリル10:バスケットゴールに向かってオーバー
→目的地に届けようと思うと勝手に効率のよい身体の使い方が導かれる感じがあります。何より楽しそうでした。体育教師なら「おもしろい練習見つけたと」一度は通るであろうドリルですがだいたいみんなが見つけてます笑
ドリル11:壁打ち(①オーバーのみ②オーバーとヘディングを交互③オーバーと足④自由、とにかく落とすな)
→打った通りに返ってくる、壁打ちは人生だ(やまだえっせい1992–)上手くなりたいと思った時きっとどの球技においても壁打ちはいい練習になりますね。
【今日のメインゲーム:7人制バレーボール】
この単元のメインゲームは基本的にこのオーガナイズです。9人制バレーに近いのでローテーションは採用せず、フリーポジションでゲームを行なっています。前回の反省を生かして、それぞれが守ることのできるスペースの大きさによって配置を決めていくことでよりラリーの続くゲームになった印象があります。
学習の初期段階は技能的な不足と心理的安全性の不足でどうしてもボールが落ちやすいという課題が見られます。
ボールが落ちるという課題がある時に、課題解決のアプローチとして何を選択するか?には授業者の色が出ます。
とにかく色んなアプローチがある中で何を選ぶか?
そこには指導要領で求められること、効果的であると言われる指導法への理解、授業者が求める理想の姿、色んな要素が複雑に絡み合います。それでも大切にしないといけないのは、子どもがバレーボールを通してどんなことに喜びや楽しさを感じるのか、わからないかもしれないけどそれを覗こうとして、その積み重ねで幸せを感じることができることだと考えています。綺麗事に聞こえるでしょう?いいのよそれで、教育は綺麗でなければいけないんですもの。
では僕は何を選んだのか?最後まで答えになるものは出てくるかわかりませんがもう少しお付き合いください。
4時間目「個人ドリルいろいろ」
単元によって明らかに準備の時間が変わるのは子どもあるあるなんですが、はじめは15分かかっていたネット張りが5分ちょっとで終わるようになりました。そのスポーツのおもしろさから来る自発的な準備の質の向上は、大人がイライラしながらかける「急ごうぜ」よりもずっと力があります。
僕はここ数年、授業において子どもを怒ることがほとんどないんですが、それはスポーツのもつおもしろさを時間いっぱい享受したいと思う子どもの自然なあらわれなんでしょう。15分に授業が終わり、なぜか16分には体育館にいる(たまに15分にいるあれは確実に子どもが前の授業に圧力かけてます、僕の指示ではないですがごめんなさい笑)そして20分過ぎには準備が終わります。本来は25分スタートの授業ですが、バレーボールの授業では35分を全体のスタート時間とし、15分間の自由に使える時間を用意しました。
ちなみに僕の授業には決められたアップがありません。屈伸、伸脚のあれは2年目からやってないですし、授業前にグラウンド3周とかもやってないです。
今年初めて担当した学年ですが、僕の授業スタイルに慣れてきた子ども達は「遊んでいるみたい」と表現しますが、与えられた15分の使い方、そして学び方が上手になってきました。学びをLessonから自ら学ぶstudyへって感じですね。
【今日のドリル】
ドリル12:ネットを挟んでの2人組のオーバー、アンダー
→バレーボール経験の少ない子どもがネットのないところで対面のパスを行う時のエラーにフォームの崩れがあります。(ボールが低く飛んでくることがあるので正しい形の反復が難しいので)ネットという制約が自然と山なりのパスを生むので経験のない子どもほどネットによる補助が必要だと感じました。
ドリル13:一人三段
→これはこの単元を通して唯一反復して行なっていたドリルです。2人組で1人がネットを超えて配球します。もう1人はアンダー→オーバー→スパイクの順でネットを超えて返球します。この単元ではやりませんでしたが実技テストを行う際にはこれを採用しています。アンダーで腕を振ってしまう生徒が次のオーバーも自分で行う意識をもつことで手を振らなくなりました。
ドリル14:①ジャンプヘッド②ジャンプして一番高いところで手で触ってネットを超える③ジャンプして一番高いところでスパイク→以前Vリーグのアカデミーでコーチされている方に教えていただいたものです。アタックラインでボールを高めにワンバウンドさせて一番高いところでヘディングしてネットを超えるシンプルなドリルなんですが高いところでボールを捕らえるのにめちゃくちゃ良いのですこれ!
【今日のメインゲーム:7人制バレーボール】
様々なアプローチを思いつく中で、それでもゲームのオーガナイズを変えずにいるのは僕の中での子ども達への期待が大きいからでしょう。ドリルによる個人技能の向上とその自信が生む運動量、コミュニケーション量の増加が結果的にゲームのパフォーマンスを向上させる、そう期待して送り出したゲームは予想通りバレーボールらしくなってきました。
5時間目「テニスコートでバレーやってみた」
あるクラスでは他の学年と時間割が重なり体育館が使えないということで急遽テニスコートを使ってバレーの授業をしました。トラブルがあった時にこれは導かれているのだと、必要だから起こるのだと、その状況を楽しめる気概を大人がもっていると子どもは挫折やネガティブをポジティブに変換するようになります。中体連で負けた時、部長が言った「この負けを最悪と決めるにはまだ早い」にはまさにそんな強さを感じました。イレギュラーな場所の設定もまた制約のひとつ、どんな学びが生まれたか見ていきましょう。
【今日のドリル】
ドリル15:直上トス+ヘディング
→直上トスとヘディングを交互に行います。手と頭をスイッチし、正しい位置で瞬時に捕らえることを求めます。運動は探索です。
ドリル16:リフティング
→サッカーのリフティングも頻繁に行いました。正しい位置に足、身体を運ぶことができればボールは上に上がる、単元を横断して身に付けるべきボールスポーツのコツです。
ドリル17:バレーボールテニス
→あえてここではバレーボールを使ってハンドテニスをします。ボールの軌道に合わせて、身体を整える(バックステップ踏んだり、前に出たり)これは空間認知に働きかけるドリルです。
ドリル18:スパイク練習
→2人組でネットを超えて配球してもらい、スパイクを打ちます。あえて低いネットから身体の前でボールを捕らえる手の出方を誘発します(ネットが高いと捕らえる手の位置が後ろになる)
【今日のメインゲーム:5人制バレーボール】
テニスコート3面で5人制のバレーボールを行いました。いつもより低いネットで起きた現象はスパイクがたくさん見えるようになったことです。入りやすいから打つ。それに伴って打たれる前にレシーブ準備に入る生徒が増えました。指導者は環境のデザイナーであるとはまさにこれのこと。サッカーのTRでシュートが少ない現象を改善しようとゴールを運動会で使う竹の棒(4m)を2本立てたものに変えたらシュート数が増え、それに合わせて打たせたら入る状況をなんとかしようと守備がちゃんとボールにいけるようになった経験があります。与えらえた環境をいかにして使うか、体育教師として腕の見せどころです。
6時間目「サーブ研究〜アンダーハンド〜」
レシーブがある程度できるようになってきたので遅ればせながらサーブに入ります。バレーボールの単元を組み立てる時に、サーブをどこにもってくるかはキーポイントのひとつです。バレーボール経験のない子ども達がもれなく最初の壁として抱えるのがサーブが入らないという課題です。
「サーブは難しい技術だから早くから取り扱って慣れることで早くに正規ルールでゲームをさせたい」という考え方もできると思います。以前、女バレの顧問をやっていた時に中1でバレーを始めた子ども達がサーブが入らないことを理由に小3のジュニアチームに負けたのを思い出しました。ただ、僕は今回、正規のルールでなくてもバレーボールのおもしろさを味わうことができる時間を多く作りたいということで、サーブの採用をこの時間からにしました。
バレーボールにおける唯一のクローズドスキルであるサーブは、誰にも邪魔されない安定した状況下で、正しく力を加えることができればちゃんとボールが飛んでいきます。プレーの成功、失敗がわかりやすいため、特別な工夫をしなくてもサーブそのもののもつ絶妙な難易度は子どもを夢中にさせます。スポーツが長い歴史の中で国や言葉を超えて広く普及していくのは、そこに絶妙な難易度とルール設定があるためです。極端な話、僕等体育教師が何もしなくてもそのスポーツがそのスポーツであるだけで学びや楽しさを享受できます。だから下手にあれこれ手を加えて邪魔しちゃわないことも大事なんですね。
初めてサーブのトレーニングをしたわけですが制約は「持っているボールは絶対に動かしてはいけない」からスタートして置いてあるボールに当てにいくだけの状況を作りました。初めての子ども達のエラーの多くはトスの高さと当てにいく自分の手のタイミングが合わないことにあるため、この制約ひとつでもれなくみんなアンダーが入りました。そこから先はトスのボールを動かしたり、速さと正確性を追求したり、サイドハンドや天井サーブに移行したり、誰も止まることない時間でした。
【今日のメインゲーム:7人制バレーボール】
これまでのゲームは教師のチャンスボールの配球でプレー間をなるべくシームレスにして3秒後には次のゲームが始まるようなシステムを作り、プレーさせたい選手に意図的な配球をすることをねらっていましたが、ようやくサーブの導入です。
デメリットはプレー間が10秒かかってしまうこと。
メリットはちゃんとバレーボールであることです。ボールに影響を与えている身体の向きや角度、空気感からどこに飛んでくるかを予測して準備をするあの時間はバレーボールなのです。
7時間目「サーブ研究〜オーバーハンド〜」
前時に引き続き、サーブ研究のオーバーハンド編です。おそらく中学生のバレーボールの授業において「できる」「できない」がはっきり分かれる難易度高めな技術です。
それでも、「できるようになりたい」と言われたら、じゃあチャレンジしてみようとなるじゃないですか。4月から一緒に過ごしてきた成果だなと思うのは誰もセンスがないから無理ですって、運動神経悪いんで無理ですって言わなくなったことです。みんなできるかわからないけどやってみるって言うんです。僕は保健体育を通してそんな気概を作ることができたんだと思うと少しだけ自分の仕事に自信をもてます。
さて、多くの生徒に共通するのが投げる運動経験が少ないことです。遊びの形が変わってきたからでしょう。僕は毎日のように野球をしていた小学生でしたから、投げ方なんて教わらなくても勝手に投げられるようになりました。しかし、今の子ども達は野球をしない。打ったらサードに走る。ドッジボールすら通ってきてないとしたら、やはり僕等が投げ方を丁寧に伝えるしかないんです。でもそれって大人が奪ってきてしまった部分があるから、「今の子は!」なんて苛立つのも違うじゃないですか。できないこと、知らなかったことは機会を与えて、できるようになればいいだけですから。ほら、僕等が野球をしていた時間で彼らがしていたことでこれからの社会が助けられたりするわけでしょう?
具体的に何を伝えたかというとボールを打つ、投げる、ラケットを振る動作に共通するフェーズを以下の3つに区切り、どこが抜けているか仲間同士フィードバックをします。
「あ、今②が抜けてるから手の出方が砲丸投げみたい」みたいな感じです。これで大体フォームはきれいになっていきます。ここに加えて腕の認識をひじや肩からではなく肩甲骨からにして腕を長く使えるようになるとよりフォームはよくなります。もし腕を長く使う感覚がわからなければ、一度バドミントラケットを握って一番高いところでシャトルを打ってみるといいです。直接ボールを打つよりも腕を長く使う感覚がわかりやすいって子どもが教えてくれました。
ああだこうだ言いながら、子ども達はサーブを打っては撮影してもらったiPadの映像を見て自分の感覚と実際のパフォーマンスのズレを確認します。そしてそんなことを30分ひたすらにしているのです、飽きもせず。僕は送られてきたサーブの動画に僕なりの動作分析をかける。1人がよくなるために、みんなが協力する。学校でなければいけない理由をひとつ見つけました。
【今日のメインゲーム:7人制バレーボール】
サーブから始まったゲームはやはり高いレシーブ技術が求められます。ゲームの難易度は一気に高くなりました。物体に影響を与えるものから予測をして準備をしてレシーブをする、バレーボールらしさが見えてきました。
8時間目「制約ラリー」
全体にある程度の技術の高まりが見えてきたので変則的なミニゲームにチャレンジしてみました。
バレーボール特有の制約である「3回以内の返球」を最大限使った方がお得な(ラリーが続く)ラリーゲームを行いました。アイデアとしてはおもしろかったと思います、お試しあれ。
バレーボールの授業をする時によく見るのが「3回触ってから返そうね」というもの。バレーボールにおける3回の触球は自分達のねらった攻撃を実現するための手段であり、3回触ることが目的ではありません。そのため3回使った方が
目的を達成しやすい意識を子どもがもてるようなオーガナイズのゲームをねらって作っていきました。他にもアイデアがあれば教えてくださいね。
【今日のメインゲーム:7人制バレーボール】
この日はミニゲームを15分ほど行った後、残り時間30分をメインゲームとしました。サーブやローテーションを導入してルールをより正規のものに近づけていくにつれて、技術レベルとルール設定のミスマッチからなのかボールに関われる子どもが固定化してしまいました。4時間目に全員が参加するバレーボールらしさを感じ成長に驚いて以降、全体としての伸びがないなと感じたのです。つまりは予想していた8時間目の姿との乖離があったのです。
果たしてどう解決していくべきか?
その日は一人落ち込んで授業の次の1時間の空き時間、体育館のフロアに寝転んでずっと天井を眺めていました。「あ、またバレーボールが増えてる」
2年目の後輩の授業を見て受けた衝撃
9時間目の授業を振り返る前に、僕がこの単元に苦戦する中で新たな学びをくれた2年目の後輩の授業を紹介します。
昨年は彼が初任、僕が初任研者指導の担当をしており、毎週彼の授業を見てはフィードバックを送っていました。僕が初任の頃の指導教官(当時はそう呼ばれていました)はとにかく厳しい人だったので、僕が準備を怠ってテキトーな授業をしようもんならお見通し「何がしたいかわかんねぇ」と毎週のように叱られていました。その度に職員室が凍りました。保健体育のいろはを教わった1年目は間違いなく今の僕の礎なので感謝をしていますが、怖くて自由なアイデアを出せるようになったのは2年目からだったので彼には初任の頃から自由なアイデアを出せるように「ねらいと熱い想いさえあれば何やってもいいよ」と伝え続けてきました。
授業のおもしろさは自分であれこれ考えて、上手くいっても、失敗しても、自分に責任を返せることにあると思っているので僕と同じやり方を強要することは一切ありません。元々僕の弟の高校、大学のサッカー部の後輩だったこともあり、不思議な縁でもうずっと前から知っている仲でしたが、同じところを目指してくれたとはいえ、彼は彼らしく僕とも違う授業のスタイルはおもしろいものをもっています。彼のアイデアから学ぶことは多く、師弟というよりは同じ意志をもった仲間のような感じです。
研修の一環で彼が授業公開をする機会がありました。学年で指導案を検討して、授業を公開してもらい、それを見て事後研修をする形の研修です。指導案検討の時から他教科の先生達からはあれこれと指摘がありましたが、彼はワンバウンドのバレーを導入すると決めて単元を進めていきました。僕はバレーボールの本質は「ボールを落とさない」と捉えていたのでこれまで採用はしてきませんでしたが、捉え方の違いであると彼のチャレンジを見守りました。
授業公開当日の授業だけ見ればワンバウンドありのゲームが有効だったかはわかりません。僕も事後研修で「ワンバウンドを許容することで失われるバレーボールのおもしろさ(ボールを落とさないおもしろさ)をどれだけ教師側が理解をした上でリスクを許容するか。ワンバウンドにすることでスペースを埋める技術が高まらない可能性がある(ワンバウンドを待ってから全員が動き出す様子が見られたため)」とフィードバックをしています。ワンバウンドありのルールがバレーボールらしさを奪ってしまうのでは?と感じたのです。
そこから数日経って、僕自身が自分の進めている単元に行き詰まった時に彼の授業のその後が気になり空き時間を使って見に行きました。
そしたらそこにあったのはあまりに楽しいワンバウンドバレーだったのです。
バレーボール経験の浅い子ども達にとってはハードルの高いレシーブ技術の難しさをワンバウンドにすることで難易度を下げ、三段攻撃やラリーの多さでおもしろさを担保したゲームは、普段から子どものことをよく見ている彼がきっとこうなることをわかって続けたがゆえの成果でした。攻守に難しさの偏りのない拮抗したゲームは、ゲームとして優れていたので衝撃を受けました。
また、ワンバウンドのゲームは続けていくとワンバウンドが邪魔になるんだと感じました。それはなぜか?時間がかかるからです。時間がかかるとなぜダメか?それはスペースがなくなるからです。結果的にワンバウンドを使わないでプレーするチームも生まれていて僕がねらっていた姿がそこにはありました。
上手くいかない時間も許容した上で、数時間後には絶対よくなっていると自分の見立てと子どもを信じた素晴らしい彼の実践に拍手を送りたいと思います👏
9時間目「ワンバウンドゲーム」
バレーボールをボールを落とさないスポーツと捉えてきた僕があえてここでワンバウンドゲームにチャレンジするのは勇気がいりました。ただ、ボールに関わることができる生徒の固定化はプレーへの自信の差から生まれてしまったものだと仮定して、落としても続けていい安心感が多くの子どものボールプレーを増やすとワンバウンド後もプレーを続けてよいというルール設定でメインゲームを進めました。
【今日のメインゲーム:7人制バレーボール(ワンバウンド後もプレー可)】
ワンバウンドありのゲームのメリットはプレーが切れないところにあります。落としても大丈夫な安心感はボールに関われる子どもを1人、2人と増やしました。また、落ちてもなお追い掛ける姿があります。後輩のようにずっとこのルールで続けてきたわけではないので、適応に時間はかかりましたが、何か大きなヒントになるゲームでした。
それでも落とすことを許したくない、子ども達のそんな気持ちはこれまでの僕の実践の成果です。
10時間目「セッターが生まれたゲーム」
バレーボールの3回の触球は、サーブで乱れたボールを整えて、より自分達のねらった形(再現性)をもって相手コートに落とすために使われると理解しています。そうなるとセッターの役割が重要になります。ただセッターに求められる技術の高さからとりわけここの役割に触れることができなかったのがここまでです。過去には2球目(トスの部分)をキャッチして投げていいキャッチバレーの実践をしたこともありますが、できるだけ普通にバレーがしたいとの要望から採用しませんでした。
【今日のドリル】
ドリル19:円陣パス
→あまりに遅いと思われる円陣パスの登場です。シンプルなオーガナイズの中でコミュニケーションを求めることもできるし、乱れたボールにみんなで移動(カバー)することを求めることもできる。、原点にして頂点です。
ドリル20:セッター経由の円陣パス
→円陣パスの真ん中に1周交代でセッター役を立てます。必ずセッターを経由して順番にパスをつないでいきます。送り先が決まっていることはプレー判断を助けるのだと気づきました。
【今日のメインゲーム:7人制バレーボール(ワンバウンド後もプレー可)】
10時間授業をしていると子ども達はより効率的に勝てる方法を模索するようになります。これまでずっとレシーブの送り先が定まらなかったチームがセッターを置くことでより再現性のあるゲームを作るようになってきました。トスのちょうどよい難しさにおもしろさを感じて運動能力の高い子ども達がこぞってチャレンジを始めました。
11時間目「よりバレーボールらしいゲームへ」
2年生のテニスの授業を終えて、急いで体育館へ向かうともうネットが張られ、それぞれが自分に必要なストレッチをして僕を待っています。
「こんにちは!もうボール使っていいですか?」
「もちろん!残り2回は全部ゲームで。ドリルいる?」
「チームで練習してもいいですか?」
「オッケーそうしよ」
それぞれのチームが必要な練習を始めます。バレー部がセッター役を買ってひたすらスパイク練習をするチーム、レシーブの練習をするチーム、それぞれの目的のために必要なことを選んでできる、子ども達の中で指示待ち人間とマリトッツォはもう流行ってないそうです。
【今日のメインゲーム:7人制バレーボール(ワンバウンド後もプレー可)】
ラリーの時間が長くなりました。たくさん拾えるようになりました。レシーブの技術が上がったのもそうだし、誰が拾うか声が出るようになりました。そして何よりチームのために、誰かの失敗をミスにしないように必死でプレーできるようになりました。そこにあるのは僕の知っているバレーボールでした。
12時間目「ラストバレーボール」
エピローグ
こんなにも時間をかけ、たいそうな文量を並べてきたにも関わらずまだ書きたいことがあるというのだから人間とはめんどくさいものだ。AIに添削を任せればきっと半分にされるおまけの多さは、不完全な人間らしさと笑って許してもらえるだろうか?
取り立てて新しい実践や提言もない授業報告にお付き合いいただきありがとうございました。入れていただいたコーヒーはもう冷め切ってしまっていますよね。
今回の単元を行なっていた1ヶ月半、実は僕にとってはこれまでにない葛藤の日々でした。
9年目になり僕もそれなりに授業を考えることには自信がありましたが、子どもが落ち込む姿を一度ではなく見てしまった意味であまりに上手くいかないことが多い単元でした。
これまでの経験から「3年生ではこれぐらいできてほしい」という僕の期待と子ども達のもつ経験(1年時に少しだけ)の乖離の中でそれでも僕の理想をベースに授業を構成してしまった反省があります。
そもそも正規のバレーボールに求められる技術レベルは高く、10時間程度のドリルで埋められる技術レベルではないと気づいたのは単元の中ごろでした。そうなるとゲーム自体の難易度を下げる必要があったわけですが、僕の中のバレーボールの捉えの狭さが中々それを許してはくれません。見てきたものの多さが邪魔をしてしまったというか、自分で決めた本質とやらに囚われ柔軟であれなかったのだと思います。
リアリストでありながら子どものこととなるとロマン派の僕はたくさんのドリルを通してできることが増えていく姿に、正規のゲームを求めたのだと思います。自分のコントロール下においてボールを上手く扱うことができるようになった子ども達、それでもドリルの成果とゲームパフォーマンスが中々結びつかなかった。ここにきっと次の単元への反省と僕の中でのバレーボールというスポーツの再びの捉え直しがあるのです。
それでも子ども達はバレーボールというスポーツの中にそれぞれで楽しさを見出して、それぞれの楽しさを増やしていけるように取り組みました。もっといい授業をしてあげたかったという僕の後悔とは裏腹に、こんな感想が並びます。
この不完全さ、AIに出せますか?僕のポンコツが人を動かすってこともありませんか?
難しいことにも果敢に挑戦できる、誰かのできるようになりたいを助けられる、そんな力を非認知能力とするなら、僕はバレーボールを通してこれからの社会を生き抜くために必要な力を育むことができたんじゃないかと思います。今、僕は僕の仕事が少し誇らしいです。
そう考えるとバレーボールはいいですね。
求められる難しさがこれからの先の社会と似て、ちょっと難しいです。子ども達はちょっと難しいことに挑戦できる気概を身に付けたのできっと余裕です。
どうかこれから先も日々起きるちょっと難しいことを丁寧にレシーブしていける子ども達でありますように。
僕らはたまに間違えてちょっとだけズレた彼らのボールを丁寧にトスしてあげられますように。
そして最後は自分たちで人生を決められますように。
いただいたサポートでスタバでMacBookカタカタ言わせたいです😊