なぜ僕らは学校で働くのか?
しんどいなと思うことがある。
これまで何度も自分に問うては、その場限りの納得で収めたはずの問いが、定期的に''やっぱり納得いかないわ''という顔をしてやってくる。
きっかけは些細なことにも関わらず、今の自分が納得する答えを出すまで、その衝動はしばらく頭の中に居続ける、それは脳まで食事をしたような重さで。
先日、数年前に同じ学校で働き、今は民間で別の仕事をする後輩と食事に行った時のこと。
後輩が隠れた名店があると紹介してくれた港の店は、ちゃんとインバウンドにあやかり堂々として隠れる気がないものだから数十分並ぶことになった。
まぁ違う世界の話が聴きたくて声を掛けたから都合が良かったし、僕も今年度は企業に出たので、分かる話が多いという点で安易にM-1の話に流れなくて良かった。
その中で彼の転職の理由を入り口にこんな話になった。
「自分はなぜ見返りが分かりづらい教育の世界に身を置き続けかつ学び続けるのか?」
これが刺身を食べ解散した後も、のどの奥に突き刺さる。
「教育は掛けたエネルギーの効果測定が分かりづらい、ではなぜ?」
もしもそう問われた時に、僕は納得していただけるコミュニケーションを持ち合わせていない。一人でも優秀な若い人の手を引っ張って仲間に入れてあげられる自信がない。僕は好きなのに、僕の好きにはまだ決定的な言葉がないのである。
(大袈裟に)すべてのコンテンツにおいて時間の掛からない分かりやすさを求める若い世代には「何年かしたらわかるはず」の常套句は理解されなくなってくる。
僕自身10年経ってもなお、自身の注いだエネルギーの見返りや、教育の正解はよく分かっていないのだから頼りない。
「先輩、今すぐ答えがほしいんです」
ではなぜ僕らは教育をおもしろがり、そして学び続けるのか?
それはきっと自分が学び複雑になるほど、子どもと交わすコミュニケーションが豊かになるからであると考える。
子どもは悩む。
取り留めのない不安に言葉が付かないから今日も明日も苦しい。
医者でもカウンセラーでもない僕は答えをもっていないからコミュニケーションを取る。あらゆる角度から話をし、2人で行ったり来たりしながら言葉を見付けていく。それを豊かなコミュニケーションと呼ぶことにする。
すると、重ねていく中で、もしかしたらこれかもというような言葉に子ども自ら気付くことがある。
その表情に嘘はない。
僕の学びが止まり、知識が偏っていたら、きっとこれぞ正解を押し付け、少ないラリーの中で仕事をした気になる。子どもは自分と先生との立場をわきまえているから、まだ納得のいかないハテナをもちながら先生が嬉しくなる顔ができる。
その表情には嘘がある。
僕らも大人だからそれに気付く。気付いて変わらないでいることもできる。
ただ、学びが複雑であるほど、強そうな顔をした、誰だかの名言の弱さを知り、豊かなコミュニケーションこそより発露に繋がることを知る。
「あぁ本当に見つかったんだ」
それは何年経たなくとも、今日見つかる教育のおもしろさである。
「教育は見返りを求めてはいけない」
その言葉が強すぎて、いつかわかればいいやと疑うことなく正しく仕事をしてきたが、もっと勉強してコミュニケーションが豊かになれば、もっと早く発露に気付くことができる。
その心からの納得の表情は日々の報酬として受け取ることができる。
そんなことを見返りだとした時に、先生たちは教育でもっと自分が喜んでもいいのではないか?と僕は思う。
学びは報いだと思えるものを日々気付くためにある。
と信じて今日もページをめくる。