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錦秋の京都旅「恵心僧都ゆかりの寺院と腰掛トマソン」


石破総理が伊勢神宮の御垣内に入る際に一礼をせずスタスタと素通りした、と2025年1月11日付の週刊誌で取り上げられました。反石破の保守派を煽って大炎上させるという壮大な目論見があったのでしょう。しかし世間の目は完全にフジテレビと中居正広さんに向いていましたので燃え広がること無く不発となりました。


鳥居の前で一礼しますか?
本堂や拝殿の前で唱えますか?

⇒はい
 いいえ


noteにアンケート機能があるならばぜひこれらの質問を皆様にぶつけてみたいです。先日お話したように私は宗教と関わりのない家庭環境でしたので所作や作法を知らずに育ってきました。今は二礼二拍手一礼が自然とできるようになったものの鳥居の一礼は時々忘れてしまいます。本堂や拝殿で御真言や唱え言葉を発したことはほとんどありません。


石破総理の無礼な振る舞いが炎上しなかった理由。

それは神道の作法が国民に浸透していなかったからではないでしょうか。2023年春に初めて伊勢神宮へ参拝した際のことです。事前に下調べをしていなかった私は拝殿で賽銭を投げ入れてしまいました。え?そうなの?と思った方はきっと多いと思います。内宮と外宮では天皇以外の人がお供えをしてはいけないという独自の決まりがあるのです。白い布が賽銭箱代わりかと当時の私は思い込んでいました。そうではなかったのですね。どうしても金銭を投じたい方は授与所にてお神札やお守り、御朱印を頂くことで伊勢神宮に貢献することができます。

観光客がコインを大量に投げ入れるせいで忍野八海の水質が悪化し注意喚起をしてもまったく改善されない、と四苦八苦している管理者の様子が一年ほど前にテレビで放送されていました。木の枝におみくじを結び付ける光景が減った一方で、賽銭箱にお守りを投げ捨てるというとんでもない人を先日の初詣で見かけました。一般人だって礼儀やマナーを知らない人が多いのに一礼しなかっただけでやり玉に挙げられる石破総理。だらし内閣と揶揄をされ外交の場でも不格好と無礼ばかりが目立つ変わり者ですが、伊勢神宮の件に関してはさすがに可哀想だなと同情しました。マナーマナーと人はいうけれど義務教育で習わないことなので徹底するのって意外にむずかしいんですよね。

改めて調べ直してみたところ「鳥居前の一礼」は公式の作法ではありませんでした。身と心を清める役割は手水舎が担っていますので境内に向かって一礼しなくても問題はまったくありません。

《補足と訂正》
2025.1.24.14:10付


それでは旅の続きに参ります。訪れたい名所があったので朝霧橋を再度渡り宇治川右岸に戻ってきました。


福寿園宇治茶工房の建物が見えてきました。


このあたりは宇治七茗茶園の一つ、朝日園があった場所とされています。

営業時間は10時からということで準備している店員さんを見かけました。


車のない時代は寺号標と道標の間の幅が標準だったのでしょうね。


今から向かう寺院は真言宗ということで弘法大師さんがお出迎えして頂きました。


到着しました、朝日山恵心院さんです。

元々の寺名は空海が名付けた龍泉寺で、荒れ果てた寺を恵心僧都えしんそうず源信げんしんが再建したことで恵心院と呼ばれるようになりました。源信は源氏物語・宇治十帖に登場する「横川の僧都」のモデルと言われている人物です。藤原道長に浄土教を説いて帰依させるほどの影響力を持つ僧侶でしたが残念ながら大河ドラマ『光る君へ』での出演はありませんでした。



有り難いと思う心が
今日の幸せ


本堂は京都府指定有形文化財で、御本尊は宇治市指定有形文化財の木造十一面観音立像になります。

あとがきに解説板を載せていますので気になる方はご覧くださいませ。


空缶型灯籠?それとも鳥よけ?


宇治川は淀瀬無
からし網代人舟
呼ばふ聲をち
こち聞こゆ

《作者不詳》
1992年 宇治市

『宇治川には流れの緩やかな川瀬がないらしい。網代で魚を取る人の舟を呼ぶ声があちらこちらで聞こえてくる。』

今は鵜飼による漁法が主流となっている宇治川。歌を詠むと当時の情景がふわっと浮かんできます。昔は網代漁法が盛んだったんですね。


お参りを済ませて右岸のメインルート、京都府道247号宇治公園線に戻ってきました。


近代文学史が大の苦手だった私。

正直申しまして田中順二さんを存じませんでした。吉澤義則が1933年に立ち上げた歌誌『ハハキギ』同人の編集に参画し1962年に『ハハキギ』を引き継いで主宰した人物になります。ハハキギを漢字にすると帚木。これは源氏物語五十四帖の巻名の一つと同じです。ゆかりの地ということでこの場所に歌碑が建てられたのでしょうね。


なんじゃありゃ

山の斜面に奇妙な建造物

あれって露地に設けられている腰掛だよなぁ


トマソンをご存知でしょうか。赤瀬川原平らが提唱した芸術学上の概念で「無用の長物」。まったく役に立たないモノを言い表した言葉になります。休憩場所にしてはかなり不便なところにあるし展望目的にしては中途半端すぎる。待合腰掛だとしても茶室が見当たらない。うーん。

この建造物の詳細をご存知の方がいらっしゃったらご一報頂けると大変嬉しいです。


あっ

ここから浮島十三重石塔が見える

やっぱでっかいなぁ


対岸に見える古風な建物は四つ星ホテルの「花やしき浮舟園」さんになります。素敵な外観だったのでしばらく見入ってしまいました。


以上です。

次回、七年前に訪れた風光明媚な坂と曹洞宗寺院へ参ります。乞うご期待。



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皆様が楽しめるようこれからもがんばっていきますので末永くご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。



あとがき




観光・参拝スポット

謎の腰掛けトマソンは田中順二歌碑近くの山側にあります。



解説板、駒札

恵心院えしんいん
当寺のはじまりは、821年に真言宗の開祖弘法大師によって開かれた古刹こさつ龍泉寺と伝えられていますが、やがて、「往生要集おうじょうようしゅう」の編者として名高い恵心僧都えしんそうず源信げんしんによって再興され、恵心院と称するようになったと伝えられています。源信は、宇治川に入水した源氏物語宇治十帖のヒロイン浮舟を助け、新たな道を歩ませることとなった横川の僧都のモデルともいわれています。近世にはいると、春日局かすがのつぼねとの縁故もあり、宇治茶師上林一門の後援を受けました。本堂には平安時代後期の「木造十一面観音立像」が安置されています。

《宇治市の史跡紹介》


木造十一面観音立像 一軀
宇治市指定文化財 1991年指定
恵心院蔵 一木造 古色 彫眼
像高 91.5㌢ 平安時代

恵心院は寺伝によれば、822年空海の創建になるという。初め寺名は唐の青龍寺に似ているところから龍泉寺と呼ばれたが、平安時代中期の寛弘年間(1004~1011年)に恵心僧都が再興して、以後寺号を恵心院と称するようになった。その後、豊臣秀吉、徳川家康の庇護を受けて諸伽藍の整備が行われたと伝える。現在は本堂、表門のみを残している。
木造十一面観音立像は、恵心院の本尊である。ほぼ直立に近い姿で、太い頸、脇を締めた体型などやや重厚な感じをのこしている点や、衣文の数が少なく簡素な表現を示しているあたりに、十世紀頃の典型的な作風を見ることができる。
宇治にのこる数少ない十世紀の作例として貴重である。  

1992年 宇治市教育委員会



京都検定対策

(2級)
宇治の優れた7つの茶園、宇治七茗茶園の一つ「朝日園」は覚えておいたほうがいいです。他の六つはマニアックすぎるので二級で出題されないと思います。

(1級)
記述式対策ということで「浄土教と恵心僧都源信」についてまとめてみました。

恵心僧都源信は平安時代中期に活躍した天台宗の僧侶で、源氏物語・宇治十帖に登場する横川の僧都のモデルと言われています。師の良源が病気になったことをキッカケに極楽往生の文言をまとめた仏教書「往生要集」を書き上げて浄土教の基礎を構築しました。極楽と地獄という概念を生み出し、藤原道長だけでなく良忍、法然、親鸞に多大な影響を与えた浄土教の祖です。

《浄土教と恵心僧都源信について》



余談

横川の僧都のモデルという事柄は知っていたものの、源信の偉業についてはまったく知らなかったので調べてみることにしました。

「ドラゴンボール」「幽☆遊☆白書」といった人気作品に多大な影響を与えてきた『往生要集』。極楽と地獄の概念を作り出した人だったのですね。宇治川に身を投げた浮舟を助けた横川の僧都。もしかしたら道長だけでなく紫式部も影響を受けていて、浮舟を使って浄土の教えを体現したかったのではないでしょうか。

「人が死んだらただの物体だ」なんていう元も子もない考え方がありますけれど、死の向こう側にも世界があって死ぬことにも意味があると考えたほうがやっぱりいいと思うんです。死んだら終わりと考えないからこそのデメリットもありますけどね。話がややこしくなってしまったのでまたの機会に。


追記

2025/01/27

『旅のフォトアルバム』応募作品の中で、スキの週間一位を獲得しました。皆様ありがとうございます。感謝!!

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