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【hint.251】「感覚」と「意識」
養老 僕は、感覚というのは、違いを識別するものだと思っています。「においがする」ということは、それまでににおいがなかったということを意味するんです。それに対して、我々の意識は、いろいろなものを「同じ」にしようとする。この茶碗とあの茶碗はよく似ていても違うものですが、意識はどちらも茶碗だという。そうやって概念化していくんです。我々の意識が持っている一番強い能力は、「同じにする」能力なんですよ。
養老 この世の中に同じものがあるかというと、実はない。よく似ているものはあるけれど、違うものです。それで、「あっ」と気づいたんです。感覚は、根本的には違いを発見するものだって。世界の違いを見ないと、感覚は意味がないんです。
養老 感覚は違いを見つけるものですから、「同じにする」ためには、感覚を無視することが大事になってくる。感覚が「違う」「違う」と言い続けるのを、意識の「同じにする」能力が押さえつける。それが、我々の脳が初めから持っている一種の矛盾なんですね。
(いずれも、養老孟司・C•W ニコル 著『「身体」を忘れた日本人』/山と渓谷社 より引用)
養老孟司さんの本は、ある時からとても好きになり、新刊が発売されたら必ずチェックする方の一人になっている。
養老さんは、「意識」をテーマとして他の著書でもよく取り上げられていて、その視点がとても僕としては(それこそ)「感覚」的にしっくりとくるし、
その文章を読むまでは、ただ「なんか違和感があるんだけど、なんていうか言葉にするのは難しいんだよなぁ〜」ってところまでしか言語化できていなかったものをちょうどよく適切に表現してくれて、「そうそう!この感じなんだよ。今まで違和感があるとしか言えなかったけど」と、
僕にとっては、その瞬間からの世界の見え方を少しシンプルにしてくれる方、というイメージ。
養老孟司さんの表現では「意識」と「感覚」、これはきっとどちらも現代を生きる僕たちにはとても重要なものだと、僕は思っていて、
他の表現では、たとえば「サイエンス」と「アート」であったり、
「要素還元論」と「全体論」であったり、
「エビデンス」と「ナラティブ」であったり、
「個人」と「分人」であったり、
そういった、二項対立的に両端に位置するそれぞれの考え・概念はどちらも重要であるし、ついでに付け加えるのであれば、この両端はそれぞれ島のように独立して存在しているのではなくて、ゆるやかなスペクトラムのようにつながっている世界観だとも、個人的には思っている(し、少なくない方々が同じような主張をされているものを見聞きしたりもする)。
「サイエンス」的な要素が強い中で「アート」的な要素も踏まえる、というコミュニケーションスタイルをとる瞬間もあるだろうし、その逆ももちろんある。
子供たちひとり一人を「個人」として取り扱って、その学校の先生方が統一された関わりをできるようにする、という部分ももちろん必要だし、ただ同時に、子供たちひとり一人と自分の「分人」を大切にした関わりもできるようにする。
僕としては、自分の「感覚」的なものの方がきっと好きで、その感覚を鈍らせていきたくはないし、かといって「意識」的なものをまったく排除したいわけでもないんだよね。
「意識」的なものの見方だったり、知識を取り入れたりすることが好きで得意な人って、正解を振りかざしてきたりして、乱暴な印象を受けることもあるんだけれども(かつての僕もそうなってしまっていたなぁ)、そうではない寛容なカタチで協力していきたいなぁって、そんなふうに今は思います。
noteには、「感覚」の大切さを折れずに育てられている方が多くいらっしゃるような気がしています。