【音楽・コラム感想】私も感じた違和感と反省の弁|R6.10.23 文春オンライン
今回のネタ
今回は、文春オンラインに令和6年10月22日付けで掲載されたプチ鹿島氏の記事、「読んでると恥ずかしくなる」朝日新聞は若者に説教するとき、なぜ尾崎豊に頼るのか「私たちの手には『盗んだバイク』ではなく…」を取り上げます。
文春オンラインの記事はこちらです↓
また、プチ鹿島氏が批判しているの朝日新聞の令和6年10月15日付けの素粒子はこちらです↓
少しおさらい
時系列でいうと、令和6年10月15日付けの朝日新聞の夕刊にて、尾崎豊の歌詞を引用した形で政治や社会への皮肉や風刺をしたコラム「素粒子」が掲載されました。
それを受けて、プチ鹿島氏が文春オンラインに記事を掲載しました。
ちなみに、朝日新聞のコラムで引用したとされる尾崎豊のアルバム「十七歳の地図」は世間シらず様が詳しくレビューしていただいてます↓
また、コラムに引用された僕が僕であるために、15の夜はこちらの動画をご覧ください↓
1つめ、拭えぬ違和感
私自身、尾崎豊は、どちらかというと好きな方のアーティストに分類してます。
私からみた尾崎の魅力といえば、尾崎自身で不完全な自分を曝け出すことで、聴衆が、現在 or 過去に経験した不完全な自分の気持ちを代弁してくれたことかなと感じています。
このあたりは、師匠様が詳しく解説してくださってます↓
ただ、今回の朝日新聞のコラムに話を戻すと、朝日のコラムには、尾崎の持つ不完全な自分の気持ちを代弁してくれている要素は、一切感じません。
まー、プチ鹿島氏の記事がなければ、素通りしていたかもしれませんが。
敢えてキツい言葉でいえば、尾崎の世界観をガン無視して、言語だけを借用した落書きレベルの気持ち悪さを強く感じました。
2つめ、なんかイタい
私からみると、15の夜は、思春期の頃に経験した大人へ理不尽さという観点が詰まった曲だと思います。
思春期を通り過ぎてしまったオッサンとすれば、懐かしさもあります。
また、僕が僕であるためにも、不確実性が増している中で、"正しい"大人が求められている今の私には、引っかかる楽曲ではあります。
しかし、どちらの楽曲とも、今の体制をただ批判している意図はあまりないと、私は考えます。
ただし、これは私の考え方であり、↑↑の私の意見を他人、特に若い方に強制すべきではないと、考えます。
振り返って、朝日新聞のコラムは、
が、すごく鼻につきます。
そこにあるのは、尾崎豊を中途半端に拗らせた痛々しい大人の醜態と、若い方に説教してしまいがちになるダメな大人すらも感じてしまいます。
とはいえ反省の弁
まさか、こんな形で、私の中の尾崎豊を振り返るキッカケになるとは、思いませんでした(苦笑)。
と同時に、プチ鹿島が取り上げた朝日のコラムの端々に垣間見える、やり方を間違えたイタいオトナであったり、講釈を垂れるオトナであったり…。
まさに、今の私が抱えている中年の危機を見せつけられた気もして。
プチ鹿島氏の記事を読んで、ものすごく懐かしい気持ちと、同じくらい、ものすごく恥ずかしい気持ちを覚えた次第です。
(了)