社会科エレジー。
中学三年生になったばかりの私。想像力豊かなお年頃。この頃の私は小心者であまり目立たない、どこにでも居るような普通の女子で通っていた。
春。新年度が始まる。新しいクラスの発表の次に気になるのは、教科担当の先生。なんせ受験生。
新しい時間割と共に配られた、教科担当の教諭名の書かれたプリント。
社会科ーー「蓮井 静香」
静香という可愛らしい名前だが、口はいつもへの字口で顔も怖いおじさん先生だ。
私は(と、いうかクラスメートほぼ全員)絶望した。
社会の蓮井は厳しいというか怖いというか。やり過ぎる教師で校内では有名だった。
折しも昭和の時代。ヤンチャな生徒は容赦なくビンタされていたし、忘れ物をした生徒は教科書で頭をしばかれるなんて日常の時代。
2年生の時、掃除時間に廊下の手洗い場でふざけていた男女数人が並ばされ、蓮井に大声で怒鳴られながら端から一人づつビンタをされるという事があり、偶然その場を目撃した私は震え上がった。
静まり返る廊下。次々と響く「バチン!」というビンタの音。心臓がバクバクして目がクラクラしたのを覚えている。その事件から私の中で蓮井はすっかり恐怖の対象となった。
そして当時、蓮井にはこんな噂があった。
「蓮井先生は生徒の鼓膜をビンタで破ったことがある。」
嘘か真か真実は分からないし、不確かな情報を鵜呑みにしてはいけないが、噂は本当なのではと私も含め皆思っていた。
こうして蓮井の社会科の一年が始まった。
蓮井の授業は独特。
事前に穴埋めプリントを配られ、次の授業までに埋めてくる。授業が始まると席の端から次々と穴埋め部分を当てられる。
答えられなかったらそのまま立たされる。立たされた者はクラス一巡しないと、次の解答権はない。
因みにその日答えられなければ、次回立った状態からのスタートになる。罰ゲーム感がスゴイ。
勿論、和やかな雰囲気なんて一瞬たりとも無い。
緊張感のありすぎる授業である。
「立ちっぱなし?それがどうした。」みたいな豪胆な人なら良いのだが、こちとら小心者。
とにかく社会科のある日は保健便りのプリントを見ても、
プリント→社会科→蓮井→怖い。
ふいに授業中に選挙カーが通る。
選挙→公民→蓮井→怖い。
5限が社会の時の昼休みに至っては、
弁当→マカロニ→小麦→アメリカ→大農法→世界輸出→地理→蓮井→怖い。
何ならお題を出してくれたら、マジカルバナナのリズムで何にでも「蓮井→怖い」に変換できる自信さえあった。
毎回、自宅で事前にばっちりプリントの穴埋めをこなし、社会の時間に備える。
答えられなかったときの蓮井の仏頂面から繰り出される「違う」=「立っとけ」を意味する言葉。
今まで何とか立たされる事は回避していたが、他の人が「違う」と言われる度にビクビクしていた。
こうして、いつまで経っても蓮井の怖さに慣れないまま中学最後の社会科は進んでいった。
季節は晩秋。ボチボチ授業もまとめに入ろうかという時期。確認テストなんかも各教科頻繁に出始める。
蓮井が言った。「次の授業、教科書○ページから○ページの内容を確認する。事前に復習しておくように。」
私は(プリントの穴埋め事項と教科書をリンクさせて把握しておけばいいのね。)と、軽く考えていた。
次の授業。プリントを追ってのまとめかと思いきや…。
な ん と 出 題 が
口 頭 で ク イ ズ 形 式。
まさかこんな手でくるとは。そして、いつも以上にバンバン次々と容赦無く当てられる。
ザックリとした単元で纏められていたものの、何処の問題が飛んでくるか分からない。加えて復習の為、答えに対しての注釈がほぼない分、サクサクと進み、当てられる回数も多い。
回答につまづき時間制限が来て立たされる者、まとめだからと余裕をこいて復習せず答えられない者と、立たされる者続出。
クラスに高まる緊張。そして私の番が来た。
「森!」←旧姓
私は「ひぃ」とも「はい」ともつかぬ声で返事し、起立した。
「オーストラリアの大鑚井盆地において、被圧地下水を地表に汲み上げる井戸を何というか。」
オーストラリア!!?その辺りには記憶がある。どんな感じのプリントだったかも記憶にある。ただ、その井戸の名前がボンヤリしている。
ええと。ええと。確か「"ナントカ抜き井戸"だったはず。」プリントをペラペラめくるが手が震えて上手く捲れず見つけられない。
時間制限が迫る。自信のない私はそのまんま「…汲み抜き井戸…?」と小さな声で呟いた。
蓮井は「…ちょっと違うな。」と言った。
それをファイナルアンサーと捉えなかったのか、いつもなら「違う」の後に直ぐに次の座席の人の名を呼ぶのに呼ばない。
どうやらワンチャンある模様。
私の脳味噌はフル稼働。「抜き」と付く単語が頭の中で激しく、ぐるぐるまわった。もう社会科ではなく国語の語彙探しである。
頭の中がパチパチした。
以下、クラスの友人がその時の私の様子をこう言っていた。
"クラスの皆が注目する中、眼をカッと見開き、遠くを見つめながら機械人形の様に、
「生え抜き…?」と右に小首を傾げ、
次に
「引き抜き…?」と左に小首を傾げ、
最後に手をグーとパーの形を作り、漫画の様にポンと打った後、関西弁丸出しで
「あー!掘り抜きやーー!!」と声を上げた"と言う。
声を上げたなんて全っ然、覚えてない。
頭の中で色々な語句が湧き、考えているうちに「掘り抜き井戸」を思い出し呟いた位のつもりだった。
でも、クラス中は爆笑していたし、蓮井も黒板の方を向いてしゃがんで震えていたので、友人の話の方が真実なのだろう。
このnoteでもちょいちょい書いてるパターンだが、私はテンパると奇行に走る模様。残念ながら大人になっても変わってない。
あー。あー。本気で消え去りたかった。忘れたかった。
何故ならしばらく、蓮井は廊下で私とすれ違う時にへの字口が、一文字になってるし(絶対笑いを堪えてる。)小心者であまり目立たず、どこにでも居る女子で通っていたはずなのに、少なくとも2クラス先の教室まで「あの蓮井を笑わせた女」として、密かに名を馳せていたらしい。(2クラス先の友人情報)
まぁ、私もいい加減なもんで無事高校に受かり、卒業してからそんな事はきれいさっぱり忘れていた。
んが。ここ最近、クローゼットの大掃除をしておりまして。
中学卒業時、クラスの皆に書いてもらったサイン帳が出てきたのです。パラパラめくると、みんな中学生活や私に対する思いの丈をしたためてくれている。懐かしい。
その中にデカデカと、"引き抜き井戸は一生忘れません!掘り抜きや〜☆"と可愛い文字とイラストに彩られた一枚のページを見つけた。
うう。忘れていいのよ。タナベさん。
何十年ぶりかに思い出したお話でした。