「生きている」のと「生存している」のは全然違うって知ってた???
ウンチしない人がいないように食べない人もいない。
が、自分で食べられない人や文字通り食べない人はいる。
この国に「飽食の時代」という言葉が登場して久しい。では、飽食しているのはいったい誰なんだろう?ふと疑問に思ったりする今日この頃である。
グレイッシュ・ホームの場合
ハナさん(90代、女性)の場合
わずかに手足は動かせるが、ほぼ全介助に近いため、食事も介助が必要なカスタマー。食事介助は、介護士が交代で行うのだが、どの介護士に当たるかによって食事量も異なるように見える。
ある介護士は、山盛り一杯のスプーンを無理やり口に突っ込むし、心ある介護士は丁寧に一口一口味わえるよう口に運んでいる。
介護士アミダクジっていうか?
でも、ハナさんは決して文句を言ったりしない。というか、もはや悟ったような雰囲気さえ漂っていて「ハナ観世音菩薩」と密かに命名したほどである。
食事が終わり居室へお連れした時のこと、車椅子からベッドへ移っていただき
「少しお休みください。」と申し上げたら
「また、寝るのかい?」とハナさん。
「寝る子は育つって言いますよ?」と私。
「ちょっと育ち過ぎじゃないかい?」
「もう95だでな。」とハナさんは笑う。
こんなステキな女性に介護士アミダクジはどうなの?と私は思う。
理子さん(70代、女性)の場合
理子さんは、先天性の病気に認知症が加わり、いわゆる言語からはかなりかけ離れた母音の類しか声を出せない。体も不自由で自立歩行は出来ず、やっとのことで寝返りを打つ程度の身体能力しかない上、嚥下機能にも問題がある。
だから食事は流動食である。献身的な介護士があの手この手で食べさせようとトライしているが、それでも彼女の食事量は普通の人の5分の1〜10分の1程度だろう。
流動食って?
つまり煮物もご飯も焼きそばもパスタも何もかもがドロドロした液体に加工され、スプーンで口へ運ばれるそういう食事。
私たちは、普段食事をする時、無意識のうちに、味噌汁、ご飯、おかずといった自分好みの順番で食物を口へと運んでいるものだが、人の手を借りて食事をとる場合、そうはいかない。もし、嫌いだったとしてもピーマンだけをより分けたりはできないのだ。何しろドロドロにミックスされちゃっているので。
チーフは言う。
この人、ここに来てから7年くらい経つけど、1度も家族が面会に来ないんだよね。ま、お金は払ってくれるからいいんだけどさ。
きっとこうやって死ぬまでココにいるんだろうな。
いやいや、
それ、本人の前で言うかな?
いくら相手が認知症だとしてもおかしくない?
犬や猫だって、褒められているか貶されているのかはちゃんとわかるよ?
マジ納得いかないんだけど?
理子さんは、ベッドで寝ているか車椅子に座らされているかのどちらかなのだけれど、彼女の出す大きな声は、個室の扉を突き抜け、廊下を走り、メインルームまで聞こえてくる。
文字にすると
あーあー
うーうー
あー
うーうー
こんな感じ。
理子さんは喋っているのだろうか?
それとも吠えているのだろうか?
その声は、いつか、一度も会いに来ないという家族に届くんだろうか?
昼食の残り香と排便の臭いがミックスされたグレイッシュ・ホームの中を彼女の声だけが通り抜けていく。
せめて声だけでも外へ行っておいでと、私は静かに窓を開ける。
千代さん(90歳代、女性)の場合
胃瘻造設術を受けたカスタマー。体は(たいへん失礼ながら)捻れた骨格標本のように固まってしまっている。胃瘻の方の場合、決まった時間に胃に栄養剤を入れ、その後、消化を促すためしばらく体を起こしておく。一定時間経過後、寝かせる。適宜排便介助。という手順で介護を行う。千代さんは全く喋れない。
正直言って、この方を初めて目にした時のショックを言葉にするのはとても難しい。
頭にパッと浮かんだのは香月泰男の絵「シベリア・シリーズ」の「涅槃」だった。
千代さんは、言葉を失ったせいだろうか、人間的な感情表現もなければ行動も無い(できない)。
捻れたガイコツの形に近いオブジェが横たわっているだけの存在っていう?
(もう本当に申し訳ないんだけど、そうとしか表現できないのですよ。)
「生きている」と「生存している」の違いは何だろう?
と考えるようになったのはグレイッシュ・ホーム以後である。
それ以前は、何となく「生きている」=「生存している」だと思っていた。
いわゆる寿命には健康寿命と平均寿命があると介護職初任者研修で学んだので、ここでその受け売りをしておくね。前者は健康に生きて活動できる年齢の平均値を示しているだが、そのデータは以下のごとし。
男性72、68歳 女性75、38歳
(2019年度のデータ、2022年度版高齢社会白書による)
平均寿命はどうだろう?
男性81、47年 女性87、57年
(2022年度版高齢社会白書による)
つまり、何らかの不調や病気を抱えながら生きるかもしれない時間が
男性なら8、79年、女性は12、19年あるという事になる。
この健康寿命と平均寿命の狭間にいる人たちが老人施設には多いのである。もっともこれはあくまで平均値だから、誰もがそうなるという話ではない。
では、ここで、少し胃瘻について考えてみたいと思う。
以下、Wikipediaからの引用。
胃ろうのジレンマ
胃ろうをすることで延命はするものの、著しく胃ろう患者のQOLは下がり、介護度が高まり、その低QOL高介護度期間が長くなる。海外では行わない、又は禁止されている。
高齢者、認知症や老衰の終末期の人にも、日本では患者親族の多くが寝たきりや終末期の患者にも延命を医師に強要させるため、胃ろう技術流入後は積極的に胃瘻がつくられるようになった。
その現状に対して、2012年1月28日に日本老年医学会は「高齢者の終末期の医療およびケアに関する立場表明2012」を発表した。そのなかで、「胃瘻造設を含む経管栄養や、気管切開、人工呼吸器装着などの適応は、慎重に検討されるべきである。
すなわち、何らかの治療が、患者本人の尊厳を損なったり苦痛を増大させたりする可能性があるときには、治療の差し控えや治療からの撤退も選択肢として考慮する必要がある。」と述べている。
引用ここまで。
もし、私の母が胃瘻にすると言ったらそれこそ命がけで反対する。
自分の場合でも絶対にしない。
胃瘻は、回復する見込みのある方以外にはお勧めできない処置方法なのではないか?と強く思う。
長谷川医師も胃瘻を勧めてはおられない。が、驚くなかれ❗️何と23万人もの胃瘻患者が日本にはいるそうだ。
褥瘡(床ずれ)ができないよう、一定の時間ごとにほんの少しだけ動くベッドの上で何年も過ごす人を「生きている」と言えるのだろうか?
彼らは「生存している」が「生きている」とは言い難く・・・。
では「生きている時間」から「生存する時間」にシフトした(させられた?)彼らにしてあげられる事は何だろう?
快適さの提供かな?と。
ヒトとして最低限の品位を保つっていうか?褥瘡(床ずれ)を作らない。清潔にする。食事(栄養剤)を提供するetcをサービスとして提供するのが、老人介護施設の本来の役割であるはずだ。
にもかかわらず
彼女たちは、一部悪質なスタッフの間で陰湿なジョークのネタになる。
具体的な内容はおぞましすぎて書けないが。
という訳で
私は、ここにいられない。
所属していたくもない。
「生きている時間」をムダに使いたくない。
どうしてもそう思ってしまう自分がいる秋の昼下がりであった。
今日の記事は重いな💦
でもさ、彼らはこの国に於ける「サイレント・マジョリティー」なんだよね。
本人たちが声を発せないのなら、代わりに誰かが言わねばならない。
(私が適切かどうかはともかく)誰かが書きとめておかねばならない。
そういう類の事象だと私は思う。
以上、noteの片隅で老人介護界隈の不条理について呟いてみたまるやまであった。
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注:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。