
初めてカラオケ・ボックスに行ったのはいつですか?
先日久しぶりにカラオケに行きました。僕らはいつも同じメンバーで、カラオケに行くとかなりの長時間滞在します。まあ、みんなで歌ったりするもの含めると間違いなくひとり 20曲は歌っています。楽しいです(笑)
で、歌った曲名を記録して自分のブログに上げているのですが、前回の記事を探していたら 2014年にカラオケについて書いた記事を見つけて、読んでみたら面白かったので、かなり加筆修正した上で、ここに転載したいと思います。
カラオケ創世記
先日久しぶりにカラオケに行った際に、「我々が会社に入った頃のカラオケって、拷問みたいで結構辛かったよなあ」という話になった。
カラオケ・ボックスなるものが登場するのは暫く後で、歌うのはカラオケ・バーだった。音源は8トラなどというカセット・テープの親玉みたいなやつだったのだが、カセット自体を知らない世代には説明のしようがないか(笑)
上司に「おい、お前も歌え」と言われて(今ならその時点でパワハラ認定されるかもしれない)席を立ってステージに行くのだが、画面に歌詞が出るなんて仕組みはまだなく(従って画面自体がないw)、譜面立てに分厚い歌詞の冊子(1ページずつビニール・カバーがかかっていた)を載せて、それを見ながら歌う。
キーの変更や速さの調節などはもちろんできない。ただ、カラオケ・メーカーが作ったままの伴奏で歌うのである。
で、冊子のページを繰ってみると、泣きたいくらいに大昔の演歌しか載ってない。ポップス系はほんとにパラパラという程度。今年や去年のヒット曲など望むべくもない。
「僕は一体何を歌えば良いのだろう」と言うか、いや、「一体歌える唄はどれだろう?」と途方に暮れたものである。
「カラオケは会社に入ってからの初体験だったよな」という話をしていたら、「そうそう、我々学生の頃は宴会で歌うのは春歌・猥歌の類だったよな」と誰かが言い出した。
そうだ! 思い出した。
カラオケ・ボックスがなかったのだから、学生同士でカラオケに行くなんてことはなかった(カラオケ・スナックはあったのだろうけれど、そんな所はおじさんの溜まり場で、学生たちは足を踏み入れなかった)。
そしてあの頃、確かに酒席でみんなで春歌を合唱した。多くは替え歌だった。
♪ ひとつ出たホイのヨサホイのホイ、等の数え唄とか
(『リンゴの唄』の ♪ 赤いリンゴに唇寄せて を)
♪ ハイ、リンゴのリの字をチに変えて
(「チ」の次は「マ」、最後は「ウ」)とか
♪ エイトマンの子供、とか…。
まあ、今考えたら女の子がひとりもいない野郎ばかりの宴会しかやっていなかったわけだが(笑)、それだけではなくて、何と言うか、酒席のあり方自体が今とは全く違っていたのである。
僕らの世代は、今の若い人たちと比べると、人生の途中で出てきたものがものすごくたくさんある。カラオケも然りである。
ケータイもメールも、いやインターネット自体がなかったのだ。家の電話は壁からコードで繋がっていて、どこかに持って行くことはできなかった。
コンビニもなかった。
駅に自動改札はなくて(関西地区は関東より早く実用化・導入されたが)、改札口で駅員さんが紙の切符を1枚ずつ切っていた。
食べ物もそうだった。グレープフルーツを初めて食べたのは何歳の時だったか? 「これ、グレープじゃなくてミカンやんか!」と思った。横に2つに切って、グラニュー糖をふりかけてギザギザ・スプーンで掬って食べるのだと教わった。
ピザなんか、母親がどこかで買ってきて、「イタリアのお好み焼きやで」と言って食べたのが最初だった。
僕はそういう話を好んで若い人にする。ウザい年寄りだと思うかもしれないが、それは、そういうものがなかった時代から生きてきた僕たちが偉いというような話ではない。
技術の進歩や文化の交流ってすごいね、と言う話である。それらは全てどこかから(あるいは何もないところから)「もたらされた」ものなのだ──それを意識すると感慨深いし愉しいよね、というのが僕の主旨である。
ものの変わり目を目撃するのは人生の醍醐味であるかもしれない。
今はむしろ変化が見えにくい時代だと思うのだが、それでもいろんなものが劇的に変化するのが見える瞬間がある。それを見逃さないようにしてほしい。僕ら老人は傍らで気楽にカラオケでも歌っているから(笑)
ところで、初めてカラオケ・ボックスに行ったのは何歳の時だったのだろう?
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