あなたは何故○○をやらないんだ?
世の中には「あなたは何故○○をやらないんだ?」と言って糾弾する人がいますが、私は極力そういう責め方はしないよう心がけています。その問いは結構不毛なことが多いと思うからです。
放送局に務めているといろんな電話がかかってきます。その中に「こんな大事なことをなんで報道しないんだ? どの局もやってないじゃないか」みたいなやつがあります。
ただ、そんな中に、実際には全局が報道していたということが何度かありました。
事実はその電話をかけてきた人が見ていない時間帯に放送していたのです。前夜遅くに起きた事件だったから翌日の朝の枠で放送しました。でも、その後大きな動きがなかったので、その日はそれ以降の時間帯では放送されなかった、みたいなケースです。
その電話の主が言いたいことも分からないではありません。その人ともし議論を続けたら、きっとその人は言うでしょう。「こんな大事なことなんだから、もっと多くの人が見ている時間帯に報道しろよ」と。
そう、その言い方ならまだ伝わるのです。でも、「何故放送しないんだ?」と詰め寄ると、「いや、放送しましたよ」とかわされて終わりなのです。
何が言いたいかと言うと、気をつけないと、あなたが気がついていなかっただけなのかもしれないですよ、ということです。自分が認識している事実関係だけで相手を責めると、それは的外れになったりするのです。
誰かを責めることの良し悪しは措くとして、どうしても誰かを責めるのであれば、彼がやらなかったことではなく、彼がやったことを責めるべきじゃないかな、と私は思うのです。
そのほうがよほど建設的だと思うのです。そして、やったという客観的事実がお互いに確認できるのであれば、相手は逃げようがありません。
それに、やっていないことを責められても何とも答えようがなかったりすることもあるのに対して、やったことについては、何であれ自分に責任(あるいは責任の一端)があるわけですから、主体的に語る動機になると思うのです。
「やっていない」ことについてはいろんな可能性があります。
・自分のポリシーとして、絶対にそういう方法論は採らない。
・指摘されるまでそんなことは全く頭に思い浮かばなかった。
・まだ手をつけていないだけで、これからやる予定になっていた。
・必死でやろうとしたのだけれど、何らかの外的要因のためにどうしてもできなかった。
・いろいろ考えた上で他の選択肢を採った。決してそのことを軽視していたわけではない。
・実はやっていた(あなたが知らなかっただけ)。
等々。
だから、「何故やらない?」と言われても、答えようがなかったり、逆に余計なお世話だと腹が立ったりするんじゃないでしょうか。
その辺りのことをはっきりさせるために「何故やらなかったか」と問い質してるんだよ!とおっしゃる方もあるかもしれません。それはそれで一理あります。でも、もしそうならば、いきなり糾弾せずに、静かに事情を聴くところから始めませんか?
単に言い方だけの問題ですが、「何故しなかったんだ?」という責めには「そんなもん、それをするのが第一優先に決まってるだろ」というあなたの価値観が押し付けがましく現れてしまっているのではないでしょうか。それは相手を頑なにしてしまう恐れがあります。
まずは、「ひょっとしたらそれが第一優先だと感じない、考えない人がいるのかもしれない」という可能性に思いを馳せてみるべきではないでしょうか?
それが第一優先だなんて全く思わなかったのか、そうは思ったけれど敢えてそうしなかったのか、あるいは気が動転してそんな選択肢が頭に思い浮かばなかったのか、それによってあなたの二の句の継ぎ方は全く違ったものになりませんか?
ならば、まず「何故 A をしなかったか」ではなく「何故 B をしたのか」から始めて、まず相手の行動の背景を理解して、そこから話を進めるのが良くないですか?
相手を不愉快にするためだけに言うのであれば「何故しないんだ?」が正解です。でも、それはコミュニケーションではありませんよね。
私自身は「何故やらなかった?」ではなく「何故やったのか?」「何故それを選んだのか?」「何故そちらを優先したのか?」と訊いてほしいのです。そう訊かれたら、自分の至らないところも含めて、虚心坦懐に答え、沈着冷静に議論ができると思います。
大体、人生で「やること/できること」と「やれないこと/できないこと」の数を比べたら、後者のほうが圧倒的に多いに決まっています。だから、それを問うのは時に酷ではないかと思うのです。それを問うのは時に不毛ではないかと思うのです。
他人を糾弾する場合だけではなく、自分のことについても、例えばこの note にも「何故私は□□しないのか?」とか「私がXXしない理由」などという表題の文章がたくさんあります。
表題だけを捉えてそれが悪いと言う気はありませんが、でも私には「何故私は□□を選んだのか?」「私がXXする理由」という視点で書かれた文章のほうが読む気になるような気がするのです。
否定的な発想は相手をも否定的にしてしまうことがあります。「よし、これはやらないぞ」と決める人生より、常に「さて、次は何をどうしようか」と選び続ける人生のほうが、私には楽しいように思えるのです。
他人の行動についても、「何故やらなかったのか」より「何故やったのか」を想起してみたいのです。
人生にはやれないこと/できないことが溢れています。やれることは所詮限られているのです。そんな中で、なんとかかんとかできたこと、やってみたことについてお互いに話をしてみませんか?
私がこの文章を書いたのはそういう思いからです。