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クソリプは“痛快”なのか?

このごろ“痛快”って何だろう?とよく考えます。

きっかけは、X(旧twitter)などでクソリプを送ってくる人たちのことを考えていて、彼らがそんなことをするのはひとえにそんな自分の行動を彼らが痛快だと思っているからではないかと思い始めたからです。

宇野常寛さんは彼らのそんな行動を“承認欲求”によるものだと分析していて、特定の誰かを信奉している人が「あなたの敵の宇野常寛をこてんぱんにやっつけておきましたよ」と報告することによって、その誰か(及びその取り巻きたち)の承認と、承認されることの快感を得ようとするものだと言います。

確かにその構造はよく理解できるのですが、しかし、僕は、彼らはもう少し単純に、単に誰かを罵倒することを痛快と感じるからやっているだけ、という面もあるのではないかと考えています(と言ってもそれは、結局宇野理論の一面を表しているだけのことかもしれませんが)。

ただ、よくよく考えると、その“痛快”は僕らが常々抱いてきた語感の“痛快”とは少し、しかし決定的に違うのではないかという気がしてきたのです。

僕らが“痛快”だと思ってきたのは、例えて言うなら、権力者が鼻を明かされることでした。偉そうに好き勝手していた御仁が、痛いところを突かれて、ぐうの音も出なくなることでした。ふんぞり返っていたり、カッコつけていた奴があたふたさせられることでした。

でも、彼らの“痛快”はそこまで辿たどり着いているのでしょうか?


無差別な“痛快”

たとえばクソリプはたまに僕にも送られてきます。しかし、僕は「やっつけて胸がすく」ような存在でしょうか?

僕は権力者なんかじゃありません。特権階級でもありません。彼らに敵対もしていません。

僕の不徳のいたすところで、僕の周りには僕のことを偉そうにしていると思っている人がいるかもしれません。でも、ネット上のコミュニケーションはそこまで深くありませんし、結構気をつけているつもりでもあるので、少なくともその人たちを傷つけたりはしていないはずです。

なんで僕がターゲットにされるのでしょうか? 彼らはただ無差別に安易な痛快を求めているような気がします。

ひょっとして「お前は働いているとき俺より年収が多かったから特権階級だ」とでも言われるのでしょうか? そんなことで叩かれるのであればたまったものではありません。

そんなことを言い出すと、「俺はいい年して独身だがお前は結婚して子供もいるから」とか、「お前は俺よりイケメンだから」とか、あるいは単に「お前はなんか楽しそうだから」とか、そんな理由で罵詈雑言を浴びせられる可能性だって出てきます。それは困ったことだと思うのです。

じゃあ、権力者になら罵詈雑言を浴びせても良いのかと言うと、そういうわけではありませんが、でも、健全な社会を維持するためには時宜を得て権力者に異を唱えたり責めたりすることも必要なのであって、そういうときに決して殴ったり怒鳴ったりするのではなく、穏やかに追い詰めて権力者を観念させることこそが“痛快”なのではないか──それが僕がずっと思ってきた“痛快”でした。

独りよがりな“痛快”

彼らは相手をボロカスに言うだけで“痛快”を感じるのでしょうか?

僕の感覚では“痛快”をワンウェイで達成するのは無理で、こちらが何かを言って相手が反論し、そこにこちらがさらに何かをかぶせて、それに対して相手がにっちもさっちも行かなくなって渋々負けを認める──そんな形になって初めて得られるのが真の“痛快”なのではないかと思うのです。

それはつまり、将棋の三手詰さんてづめとか五手詰ごてづめみたいなものではないでしょうか? 一方的に言っただけだと単に初手を打っただけです。言いっぱなしです。それでは将棋のように詰められないのです。

大学時代に僕の同級生が、答案用紙に担当教官の学説に対する真っ向からの反論を書いたことがありました。具体的に何と書いたのかは知りませんが、テストが終わって教室を出たところで、彼は「ざまあみろ。◯◯教授の論を完膚なきまでに論破してやったぞ!」と豪語していました。

しかし、その結果はと言うと、単に彼がその先生の講義の単位を取れなかったというだけのことでした。

彼としては教授に「ぎゃふんと言わせた」つもりだったのでしょうが、先生はそんなことで「ぎゃふん」とは言わなくて、「理解力のない学生がいるな」くらいのことしか思わなかったのではないでしょうか。

実際に先生に「ぎゃふん」と言わせて初めて“痛快”という気がします。 「ざまあ見ろ」「言ってやったぜ」というのは自己満足でしかなく、それだけでは何も社会を変えない、いや、それどころかたった一人の人を動かすこともできないのではないでしょうか?

そこで終わるのは独りよがりにすぎません。インタラクティブなやり取りの中で相手をぐうの音も出ないところまで追い込まないと本当の“痛快”は得られないように思うのですが、違うでしょうか?

そして、何よりも一番の問題は、そもそも彼らが全く反論を聞く気がないというところだと思います。

論理破綻した“痛快”

今の日本には全くスジの通らないことを平気で言う人がいます。

実際に僕のところに来たクソリプを例に書いてしまうと、その人がたまたままたそれを目にして面倒くさいことになる可能性もあるので、ここでは全く違うところから例を引いてきます。

例えば、僕が兵庫県のマンションに住んでいたときのこと。

マンションの管理組合の理事なんてものは誰でもあまりやりたくないもので、わざわざ立候補する人なんてほとんどいません。それで今では大抵の分譲マンションでは管理組合の役員は輪番制で回ってきます。誰もが理事就任を避けられない代わりに、全員が公平に責任を負うのです。

で、僕が理事になった年に、どうしても理事会に出てこない理事が一人いました。管理会社の担当者が改めて理事会出席の要請に行ったところ、彼はこう言ったそうです:

近所づきあいが嫌だからわざわざマンションを買って入居したのに、なんでそんな集まりに出席しなければいけないのか?

と。

僕は驚きました。他人に言う理屈としては完全に論理破綻していると思いませんか?

近所づきあいが嫌なのは個人の事情、あるいは感情です。それに対して理事になって理事会に出席するのは公的社会の要請です。その2つがぶつかる可能性はあります。でも、だからと言って後者を無視して良いものではありません。

というか、そんな2つを並べて議論するところに最初から無理があります。自分の心の中でうじうじとそんなことを思っているだけであれば何の問題も不思議もないのですが、他人に通る理屈ではないのです。

自分はマンションの管理組合なんてものは不必要だと考えている。だから理事にも就任しないし、理事会にも出ない。

と言うのであれば、まだ見た目は少し論理的です。ただし、それも自分の個人的な理屈にマンション住人全員を従わせることができると思い込んでいるところがすでに破綻しています。

マンションの管理組合は必要であるというのが我々の総意である。現にそういう合意の下で管理組合は結成されている。あなたがこのマンションの所有者である限り、あなたには理事に就任して理事会に出席する義務が生じるし、そのことを承認した上であなたはこのマンションを買ったはずだ。

と反論されたらどう答えるのでしょうか?

結局のところ彼は管理会社の担当者に説得されて、後に理事会にも出席するようになったのですが、会ってみると極めて穏健で常識的な人だったのでかえって驚きました。

ま、以上は論理破綻の一例(しかもそれほど悪質ではない)にすぎませんが、こういう論理破綻って、送りつけられてくるクソリプの中に溢れていると思いませんか?

ネット上でも、何の証拠も根拠もなく、誰かが言っていることを信じる人がいます。そして、それに反することを言っている人間を、何の迷いもなく叩きに行く人がいます。全く論拠を示さずにただただ汚い言葉を投げつけてくる人もいます。

でも、そんな論理破綻したメッセージを送りつけた人を称揚する人がいるのも事実です。その人はそれが論理破綻しているとは思わないのでしょうか?

なんであれ、称揚する人がいるから、そこに別の“快感”を得る構造ができてしまうのかもしれません(それはまさに宇野常寛さんの言う承認欲求を満たすということなのでしょう)。

僕はなんだか情けない気がします。日本の義務教育は日本人の論理性育成にもっと本気で取り組むべきなのではないかと思います。

でないと、誹謗中傷や罵詈雑言は言えてもまともな議論ができなくて、しかし、そのくせ一方的な“痛快”を覚えて満足している人ばかりが増えてくる気がします。

痛快って何だろう? 最近つくづくそんなことを考えます。

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山本英治 AKA ほなね爺
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