面白くない映画を観てしまうのは「失敗」であり「無駄」なのか?
年を取ってしまった今、若者との価値観や感じ方の違いについていろいろ考えます。例えば『映画を早送りで観る人たち』を読んだ際にも書きましたように、
ネタバレを読んでから映画を観に行くというような行動は、僕には信じられないものだったわけです。
彼らが言うには、とにかく「失敗したくないから」「つまらないものを観て時間を無駄にしたくないから」とのこと。
じゃあ、僕らの世代、と言うか、僕はどうしてそういうことをしないんだろうかと考えてみました。
もちろん僕だってハズレは掴みたくないです。でも、かと言って、先にネタバレしてたら観てもつまらないと思うから、というのが一番大きな理由でしょうか。
ただ、まあ、その辺は作品の鑑賞の仕方、受け取り方の違いと言うか、ある意味習慣の問題なのかもしれません。
それよりも、決定的に違うのは人生観みたいなところであって、つまり、僕は人生の何割かはハズレなんだということを身を以て知っているからじゃないかと思うんです。
そう、表現のニュアンスとしては「人生の何%かはハズレ」じゃなくて「何割かはハズレ」。何割もあるから、完全に避ける術はないとすでに諦めている、という言い方もできるのかもしれません。
でもね、映画を観てみたらひどい出来でがっかりしたとか、本を読んだら最悪の読後感でげっそりしたとか、そういうハズレであれば、外したって別にどうってことないじゃないですか。
何としても避けたいのは友だちに裏切られたとか、詐欺に遭って騙されたとか、家を買ったら欠陥住宅だったみたいな、精神的に大きな打撃を受けたり、経済的に大きな損失を被ったりするハズレです。映画や本のうちの何割かは面白くないというのは軽微なハズレだし、僕としては織り込み済みなんですよね。
それに、そういうハズレを掴んでおくと、それは明らかにその後の自分の眼力を養う肥やしになります。そのための出費としてはむしろ安いような気もします。
作品ごとにネタバレを読むまでもなく、「あ、この監督はとりあえずやめておこう」とか「この手の小説は僕には響かない」とか「こういうのは疲れそうだから自分は苦手」などと、世間の評判がどうであれ自分として一旦避けることができます。もちろん、何等かの理由で後から思い直して観たり読んだりすることもあるんですけどね。
その逆に、世間の評判がどんなに芳しくなくても、自分としては観たい、読みたいものも出てきます。そして、たまにそれが自分としての大当りだったりもするんです。そんなにしょっちゅうではないにしても、そういうのを見抜いて選べるようになるんです。
それはたくさんのハズレと当たりを経験したご褒美みたいに、ある種の無形の財産として身につく感覚なんですよね。
そんな感覚で選んだほうが、いちいちネタバレをチェックする時間が節約されて、今のことばで言うと「タイパ」が良いような気が僕はするのですが、どうでしょう?
そして、何よりも違うなと思うのは、大ハズレを避けることよりも大当たりを見つけることのほうが、僕にとっては大切だということなんです。
世間的な大ヒットが必ずしも自分にとっての大当たりでないことは経験上明らかで、しかも自分にとっての大当りは人生の何割もなくて、それを見つけるためにはハズレとの遭遇は避けられないし、ハズレをたくさん知ることでも自分の鑑賞眼は鍛えられます。
他人が書いた評価やネタバレ記事に頼っていたら、自分にとっての大当りなんか多分見つけられないし、と言うか、頼らず自分で掘り当てることが楽しくて楽しくて仕方がないんですよね。
いや、だからどうしろという記事じゃないんです。お前たちも見習え!なんて言いません。皆さん自分の感覚、自分の満足の行く方法で選んで、鑑賞すれば良いのです。映画とか本なんて、所詮そんなもんです。
ただ、とりあえずこの記事は、そうか、自分と彼らとはここが違うのか!ということに思い当たったので、それを書いただけです。
もちろん僕だって失敗はしたくないです。けれど、映画を観て面白くなかったり本を読んでつまらなかったりすることを、僕はちっとも失敗だと思っていないんだな、ということに気づきました。
若い人たちと比べると、僕の残りの人生は圧倒的に短いのでしょう。でも、僕はネタバレ記事は読まず、これからもたくさんのハズレを鑑賞して行くし、とは言え、その蓄積のお陰でハズレを掴む率は下がってきているし、たまに大当りを見つけて欣喜雀躍するんだろうなと思います。
それは本当にたまにしかないことなんだろうけれど、それで良いんだと思っています。