川内原子力発電所の「運転延長の是非」を問う県民投票条例案否決は、この国の本質が何なのかを示していると思う。

 10月26日、鹿児島県議会が九州電力川内原子力発電所の運転延長の是非を問う県民投票条例案について否決したとして、26日の朝日新聞デジタルには、「川内原発の運転延長を問う県民投票条例案、県議会で否決 自公が反対」という記事が出ています。
 また27日の朝日新聞デジタルには、「「民主主義の否定、何を恐れて」 川内原発延長の是非、県民投票求め」として、市民団体「川内原発20年延長を問う県民投票の会」事務局長のインタビュー記事が出ていて、県議会による条例案の否決について「民主主義の否定」と述べていますが、そもそも「戦後民主主義」は、真の意味での民主主義ではなく、一部に民主主義的要素が取り入れられているに過ぎない体制なので、県知事が「慎重に判断すべきだ」と消極的な意見を述べていたにも、公明が「複雑な問題について二者択一で選んでもらうことには慎重であるべきだ」などと反対したのも、特に驚くことでもないような気がします。つまり、本物の民主主義ではないので、直接請求権は絵に描いた餅であり、間接民主制を補完する制度というのも建前に過ぎないのです。
 
 この国の本質は「民主主義ではない」と考えれば、県民投票条例案を否決するのも当たり前ですし、「民主主義を否定」しているわけでもないのです。「民主主義ではない」と考えるよりも「民主主義的中央集権主義」だと考えるとわかりやすいかもしれません。ただ「共産主義的」というと問題である気もするので、「民主主義」であることを前提に考えるとすれば、間接民主主義の短所がモロに出ていて、ルソーが述べているように、「人民は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや否や、人民は奴隷となり、無に帰してしまう。」ということなのだと思います。

 ただ、真の民主制は直接民主制だとして、仮に日本がそのようになったとしても、おそらくそれをきちんと行使できないでしょう。講談社現代新書の『日本の歪み』で、東浩紀氏が「みんなでわいわい言ったあと、「偉い人」が決めて丸く収めてくれるのを民主主義だと思っているふしがある。ある意味では権威主義的な国だとも言えますよね。」(p132~133)と言っているのを読んで、納得してしまいました。
 今回の問題も、ある意味「日本の歪み」なんだろうと思います。『日本の歪み』、一読の価値があると思います。


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