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なんだかんだ、鬱っぽかったあの時期が、今の価値観の大枠を形成してる気がする

実は、鬱っぽかった時期があった

なんかもう、だいぶ昔のことのよう。
いつかもあんまりはっきり覚えていない。
多分、20歳だったか、21歳だったか。
あれからまだ5年くらいしか経ってないんだ

半年間くらい
四六時中、質量を錯覚するほどの陰鬱な感情に
意識のほとんどを支配されていた。

当時の自分
表情終わってただろうなー笑

皆が寝静まった深夜だけが
クソみたいな自分の存在を無条件に無視してくれる気がして
一生夜が続けばいいのに
朝よ、頼むから来ないでくれって
心から願ってた。

当時、どんな感覚だったか
どんな半年を過ごしていたか
本当に思い出せない。

とりあえず、周囲の人たちに一生分の嘘をついたのは覚えている。
小さな、どうでもいい嘘を重ねに重ねた。
嘘つくことでしか、
この、動き続ける世界に存在することができなかった。
そんな小さな嘘たちは、どんどん自分を"元の世界"から遠ざけた。

いやー、嫌な記憶って忘れるもんだね。笑
断片的に、当時の解釈や思ったことは覚えていることもあるけど、
感覚まではやっぱり思い出せない。

比較的健康体な今、当時の"あの感覚"を、切に思い出したい。
自分の創造したい未来の、
相当量のヒントが眠っている気がするから。


今日、電車に乗りながら ふと
なんで自分はこんなにも"人間の在り方"に執着してるんだろう
と考えた。

そしたら、"鬱っぽかったあの頃"の経験にたちかえることになった。

やっぱりか。
ここは一つの原点なんだな。

消化した後でやっと、周囲に話せるようになった

今では、過去に私が鬱っぽかった時期があったことを、周囲で認識している人はそこそこいるかもしれない。

でも、おそらく
当時、意図的に、且つ自らの伝えたい粒度で
共有していたのは1人しかいなかった。
まぁでも、1人でもいるなんて、有難いことだよな

その人も、別の経験から鬱っぽい時期がしばらく続いていたから、
ひたすら2人で「しんどいな〜〜〜〜〜」って傷を舐め合っていた。
これでは何も解決しないことなんて、当然分かってた。
でも、今思うと、本当に助けられたんだよな
有難う。

当時は本当に生きている心地がしなかった。
いくつかのコミュニティに所属していたし、それぞれで割と責任のあるポジションについていたから、
嘘ついて
取り繕って
周囲には、なんとか「あいつ使えねーな」という印象を持たれる程度で済んでいた気がする。
(自分ではそう認識してるけど、実際はもっとひどい印象だったかもね)

つまり、社会的には
当時の私も"動き続ける世界"を構成していた一部ではあった。なんとかね。

比較できるものではないけど
自分よりも苦しみ、孤独を感じている人はたくさんいただろうし
私の状態なんて全然マシな方だって思ってた。
今でもそう思う。
先に述べたように社会で生活自体はできていたからね。

ある日、
ああ。もう無理だ。って思って
目的地に向かう電車を降りて
近くにあった心療内科に駆け込んだこともあったけど
狭い待合室中を
埋め尽くすどころか、外に溢れるほどの患者さんの量に
パニックになりかけ、踵を返すことに精一杯だった。

あの景色は一生忘れない。

だから、私は診断されていない。
それが、"鬱っぽかった"と表現する所以だ。

人は誰もが、ほんの些細な一瞬のかけ合わせで、暗い世界に陥ることができる

自分の中では当時の経験を消化したつもりではいるから
個人的には、この公の場で
なぜ鬱っぽくなったのか、細かい内容に触れてもいい。
ただ、ちょっと長くなる気がするから今回は割愛しようと思う。

きっかけだけ触れると、
私の苦しい期間の始まりは、ある人からの1つの連絡を無視したことからだった。
たったそれだけだった。

それまではそこそこいい感じの生活ができていたと思うし、
日々、成長も実感しながら比較的ヘルシーに過ごせていたと思う。
でも、その日から半年くらいは
世界から、途端に色がなくなったような
表現するならそんな感じ。
モノクロの世界は、
認識するその時まで、まるでなかったかのように
突如目の前に現れ、覆い尽くす。

苦しかった当時、心から全ての人を尊敬した。
ただ街を歩いているだけの人に感動を覚える
なんてことも珍しくなかった。

もれなく、本当にもれなく
生きているだけで
生活しているだけで
本当にすごい!と心から思った。

今では日常的に忘れてしまうこともあるけど、
たまに思い出す。
とても大事にしたい感覚だと思う。

みんな、もう(既に)すごいんだよ!

昔から比較的、立場の弱い人の気持ちには敏感だった気がするけど
鬱っぽい期間を経てからは、その感覚に拍車がかかった。

同時に、
肩書きや年収のような、社会的に一般化された基準に
全く関心がなくなった。

だって、生きてるだけですごいんだもん

となると、
そりゃあ"人間の在り方"に執着するよな
一般社会と自分の認識には、明らかに差がありそうだから。
(冒頭で導きたかった結論にちゃんと戻って来れた!笑 えらいぞ、私!)

現代社会において、
今の日本において、
あまりに一般化された基準が価値を決めすぎてやしないかな

決して、一般化された基準を否定している訳ではない。
でも、あまりに影響しすぎているのでは?と思うのです。

あの人の、
毎日変わらずしてくれる笑顔の挨拶とか
道を譲ってくれる一瞬の配慮とか
元気?って久々にくれる連絡とか
直接伝えてくれるありがとうって言葉とか
体調を気遣ってくれる優しさとか

そっちの方が圧倒的に価値高くね?って

でも、きっと
みんなも心理の深層部では気付いてると思うんだよな
上手な表現の仕方を知らないだけ
慣れてないだけだと思う

だから私は、そんな
"敢えては誰にも賞賛されない瞬間"に

誰よりも敏感に気付きたいし
誰よりも全力で賞賛したいって思う。

そんな文化を
現代で少しでも広めたいって思うんだ

おわり


このPodcastでも今回の内容にちょびっと触れてるから
Instagramのアルゴリズムにうんざりしたとき
なんとなーくYouTubeに切り替える前に
一瞬立ち止まって
少しでも聴いてくれたら嬉しい😇
(あ、一番意識の切り替えが難しい瞬間か)

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