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建設的な議論って、ちょー難しい

日常というものは、
いつ崩れてもおかしくない、本当に本当に絶妙なバランスで
なんとか成立しているのだと
ことあるごとに痛感する。

あれこれ考え過ぎると、
あれれ、何が正しいんだっけ?
のように
自己矛盾っぽいものに陥る。

自分の中で、あってはならないような(そう錯覚する)矛盾との出会いは
なかなかに苦しいし、
向き合うことから逃避したくなるときもある。

ただ、そんな矛盾に苦しんでも尚、向き合い続けた先に
やっと、理想っぽいものが
ちらっとだけ、顔をみせる可能性が生じるのではないだろうか。

そんな気がする。


矛盾とは
ある同一の概念の内にある、間(はざま)に存在するものだと考える。

理想と現実、個人と社会。

同一人物であっても
"何に軸足を置くか"で
考え方や主張は変化する。

自己との対話や
他者との議論が起こるような状況において、
この、"何に軸足を置くか" が一致していなくて
一見、対立していて、相反している主張にみえるような状況が生まれる。
(自己との対話における"矛盾"/他者との議論における"対立")

分かりやすい気がするので
"対立"を例にすると
例えば、他者との議論において
理想という観点で、相手と認識は近いが、
そこに到達するための考え方、現実への落とし込み方には不一致があったとき

不一致があるところに意識は向きやすく、
一致しているはずの前提への意識は向きづらい。

議論の多くは、不一致が、不一致だけがトピックになりやすい。
一致の存在を忘れてしまった先に、建設的な議論は生まれない。


先日、あるテレビ番組内で
"性的同意"について、出演者同士で議論が起きたようだ。

また、その議論を発端に
当事者たちの範囲を超えて、ネットでも様々な議論が巻き起こったようだ。

私はその放送を見ておらず、
三次情報を頼りした感想なので見当違いも甚だしい可能性は十二分にあるが、
番組内の2人の議論も、一部建設的でないように感じた。

どちらの主張もある観点においてはとっても正しいと思った。

ただ、2人の会話の中で、
"何に軸足を置くか" の認識が一致してないが故に、
主張が衝突したように錯覚していたのではないか、と。

そうなると、どんどん議論は本質っぽいものから離れていく気がする。


建設的な議論って、ちょー難しい

自己との対話においても
他者との議論においても
"何に軸足を置くか" の観点を見失わないようにしたいな

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