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アニメ『平家物語』11話(最終話)は私的アニメ史に残る神回(感想・解説)

初めまして。
Twitterでアニメの感想とかを挙げております、yam太郎と申します。

前述の通り、普段はTwitterでアニメ関連の投稿をしていて他の媒体は使っておりませんでした。
何故今回noteでアニメ感想を挙げようと思ったかと言うと・・・

『平家物語』11話が良すぎて感想がツイートのスレッドに収まらない(笑)

という事態が発生したので、今回noteでの投稿にて感想とか解釈とかを垂れ流していきたいと思います。初noteデビューの記事になりますので、変な文面とか変な強調の仕方をしててもどうか暖かい目で見守っていただけると幸いですm(_ _)m

前置きはこのくらいにして、早速『平家物語』11話の内容に移りたいと思います。がっつりネタバレ有りなので、是非11話を見てからお願いします。結構長めですが、最後まで見ていただけたら幸いです。Twitterの方でもコメント等お待ちしておりますm(_ _)m

壇ノ浦の戦い

開戦

11話の始まりは壇ノ浦の戦いから。
アニメ後半の平家の弱体具合を見ていると源氏が圧倒的に思われがちですが、壇ノ浦の前半戦は平家側が有利でした(源氏は潮流に逆らって進み、平氏は潮流に乗って進んでいたため)。

しかし、何千ものイルカの群れが出現したこと(その他にも、原作では重能の裏切り等の事態が起こる)で徐々に追い詰めれられてゆく平家。その敗戦も濃厚となり、源氏の手は既に安徳天皇と三種の神器の目の前まで迫っていました。

ここからが、本当に辛く切ない展開になりましたね・・・。

帝の入水

宗盛・知盛らが帝のいる船に駆けつけ戦況を報告します。

「そなたらは、今に珍しい東男たちを御覧に入れますぞ。」

と、苦し紛れのブラックジョークを無理やり出した笑い声とともに唱える知盛からは、かつて「平家にあらずんば人にあらず」とまで言わしめた巨大な力を持っていた平家が打ち負かされている現実を受け入れられない・平家の時代が終わることを信じられない虚勢にも感じられて、それを笑い声で表現する木村昴さんの演技はまさに"圧巻"の一言でした。素晴らしかった。

そんな中、帝が起床し動き出す諸悪の根源害悪三種の神器大好きクソBBA平時子。その場にいる全員がこれから起こる悲劇を理解しつつも、誰も止めることができない。

「帝だけは守る」と言っていた徳子でさえも動けないのは、もしも帝が二人いる(ましてや片方はかつて絶対的な権力で君臨していた一族の子ども)世界になったら古い帝にどんな仕打ちが待っているのか、自分自身も無理やり嫁がされて帝など守れる状況に無い未来が待っているのではないか、苦しみながら生き地獄を味わうくらいならいっそここで極楽浄土へ生まれ変わるのが帝にとっての幸せなのではないか、という葛藤があったから。その苦しみが徳子の息遣いと震える体のカットに込められていて、ただただ心が打たれました。

船主へと乗り出る帝と時子、ここで帝は東西方向に拝むという儀式を行うのですが、東方向は伊勢大神宮(皇室の祖先神)への別れ、西方向へは浄土へ向かうための念仏という意味があります。
まだ八歳の帝はその小さな手で丁寧に儀式を終わらせた後、自分の運命を受け入れたように時子に抱えられながら海に沈んでいきました。

徳子の使命

その辛さに耐えられず次々に女房たちが入水していく中、帝の母である徳子も帝を守るという役目を果たしきれなかったものの、その役目は終えたと告げんばかりの切ない表情をびわに向け入水します。

ここで思い出してほしいのが2話。徳子が入水するまでの一連の流れをびわはこの時既に見ていました。しかし、徳子が入水した後にびわはこんな台詞をつぶやきましたね

まだじゃ…徳子は"まだ"じゃ

『平家物語』11話より

2話で徳子の名前を叫びながら、渦潮のカットで終わるラスト。あのとき、歴史を知らずに『平家物語』をアニメで初見で見ている人はこう思いますよね、「徳子は海の中で亡くなる」と。
これが、ミスリードだったんですね。

あの2話で祇王のエピソードを入れたことで、青いびわの目は誰かの不幸が見えるばかりではなく、幸せな未来も見ることができると分かりました。先が怖いと言っていたびわがこれから先ずっと先に良いこともあると自分の目を前向きに捉え、びわの使命を認識するための一歩に繋がる重要な回でした。
だから、このときびわが見ていた徳子の未来には続きがあり、この回で見えていた祇王や徳子の"先"はどちらも不幸な未来ではありませんでした。ずっと先、幸せな未来だって見えるというテーマに対して不幸な未来が見える終わり方をするのではなく、一貫してびわの目にはずっと先の未来が見えていたと最終話で判明する。この回収の仕方本当に上手い。

それでは、あのときびわの目に見えていた"先"は何か?それは、徳子が救出された場面のびわの台詞で判明しました。

徳子のこの先はまだ続いておる。
この目には"先"が見える。徳子は皆のためにこの先を生きていく。

『平家物語』11話より

そう、徳子は平家の生き残りとして亡くなってしまった平家一門のために生きていく。つまり、平家のために祈り続けることが彼女の"先"だったということがびわの口から明かされます。

びわの目に見える先が苦しいだけの未来ではないこと、これに繋がるように徳子は5話で苦しいだけでない平家の未来を願い祈り(赦し)ました
だからこそ、この二人が本作の主題「800年の時を超える祈りの物語」のW主人公として、祈りを捧げる存在として位置づけられるというのが必然的に導かれるように感じます(Twitterでの5話感想を載せておきます)。

びわが徳子にもう一つ伝えたこと。それは、重盛から受け継いだ橙の目で見た帝が幼き手で一生懸命祈りを捧げていることでした。これを聞いたからこそ、徳子は泣き崩れながらも生き続けることを決めたのだと思います。
そして、あの世で平家一門が、帝が、幸せで居続けられるように出家をして一門の極楽往生を祈り続ける役目を請け負う決意をするのでしょう。

こうして、二人の祈りを捧げる存在のうち徳子の使命が確立されるのでした。ここの徳子の表情と早見沙織さんの泣く演技がもう・・・(泣)。

びわの使命

既に帝と三種の神器を失った平家、徳子が引き上げられたカットから知盛の船にカットが切り替わります。ここからの場面で印象的なのが知盛の台詞。

見るべきものはすべて見た

『平家物語』11話より

「なぜこの台詞をびわに言わせないんだ!」と思った方はいませんか?
実はこの台詞、そのままびわを象徴するような台詞なのですが原作通りなんですよ(同じ場面にて知盛が「見るべきほどの事をば見つ。今はただ自害をせん(平家の行く末、見るべきものは見届けた。もはやこれまでだ、自害しよう。)」と言います)。
まるで、この台詞からびわの目の設定を作り上げたみたいに綺麗に原作とリンクしてますよね。

丁度この場面、知盛の目を映し、そのままびわの目へとカットが移り変わります。びわの目はまるでその役目を終えたと告げんばかりに彩度を失い、視力を失っていくということが分かります。

何百年も昔の原作のリスペクトを忘れず、アニメオリジナルのキャラクターとここまで調和させて物語に溶け込ませているのは本当に凄いと思います。

さて、こうしてびわは盲目になり、びわの使命は平家の行く末を見届ける存在から平家を語り継ぐ存在へと明確にシフトしました。平家物語・盲目の語り手といえば義務教育を終えている方なら誰もが分かりますね…そう、琵琶法師です。
9話でびわは、先が見えても何もできない自分に唯一できることが平家一門の栄華と衰退を語り継ぎ、その冥福を祈ることだと自覚しました。
そして、この最終話でびわは平家と過ごした生き証人というアニメオリジナルの要素を含みながら、琵琶法師と同じように平家物語を語り継ぐ存在として確立したのです。

余談ですが、大人びわの身長等が子どもびわから変わらないのはどういうことだろうという話題が度々Twitterで挙げられていたのを目にしました。
私個人の妄想ですが、先程述べたようにびわは壇ノ浦の戦いで見届けるという役目を終え、キャラクターとして与えられた物語で果たすべき一つの役割を終えたことで、キャラクターとして成長するということも終えたのではないかなと思います。
作中のキャラは大人になるにつれて基本成長すると思います。しかし、びわという人物は既に『平家物語』という作品の外部の存在(語り継ぐ側の存在)になりました。だから、キャラクターとして成長するびわはもうおらず、壇ノ浦の戦いの時点までに成長した姿で描かれているのかなと思いました。妄想ですよ?(笑)

戦の終わり


びわが最後に見た平家の赤旗は海の上にも何本も浮かんでいて、まるで血のように見えました。かくして壇ノ浦の戦いは幕を閉じ、長きに渡る源平合戦は終了しました。

灌頂の巻

壇ノ浦の戦いから時は流れ、舞台は京都大原の寂光院へと移ります。

『平家物語』の原作は第一巻~第十二巻の全十二巻と大見出しにもある灌頂の巻から構成されており、アニメのラスト約8分はこの灌頂(かんじょう)の巻が元になっています。灌頂の巻は短いながらも『平家物語』の仏教文学性を伝える特別な巻となっているそうです。

そして、アニメもその特別な意味を持たせるように圧巻のラストを締めくくってくれたと思います。何なら、このたった8分間があったから『平家物語』11話がアニメ史に名を残す神回になったといっても過言ではないでしょう。本当に、私が1番語りたかったのがここなんです(笑)。何度見ても、ラスト8分間は涙無しで見られないんですよ(泣)。
それくらい、このラスト8分間はコンテ・脚本・演出・音楽・アフレコ全てが完璧を超えていたと思いますし、何よりたった数分に仏教的な意味や想いといった作品の本質をこれでもかと詰め込んでいるのがとにかく素晴らしすぎました…。
…内容に移ります。

建礼門院(徳子)との再会

後白河法皇が大原を訪れるとウグイスが鳴きます。ウグイスは縁起の良い鳥や春を告げるといった意味がありますが、その鳴き声と共に再会するのは花摘みから帰る徳子(院号:建礼門院)でした。

ここで、徳子だけ被っているものが紫色である点に注目して欲しいです。当時、紫色というのは最も高い位の者が身に付けることができる色でした。かつて、徳子は高倉天皇の后であったにも関わらず、今や高貴とはとても言えない姿。それを哀れに思った他の尼が徳子を少しでも慰められるようにと計らったのではないかと思います。そんな被り物と対照的に、土のついた手や足が映るのが残酷で、心が痛くなりました(泣)。
ちなみに、徳子の被り物の色を紫にしたのはアニメオリジナルではないでしょうか?凄すぎます。

また、かつて源氏に平家の討伐を命じた後白河法皇と、嫁いできた娘でありながら朝敵であった徳子が再会するということには和解の意味も込められています。
灌頂の巻開始たった1分でここまでの意味をアニメーションに落とし込んでくる…本当に、凄すぎます(2回目)。

六道の沙汰

場面が変わり、寂光院で向かい合う徳子と法皇。ここからEDまでの脚本は一言一句すべてが名言です(断言)。
劇伴が流れ、その生涯を物語り始める徳子。それは、平家の栄華から衰退までを六道と重ねたものでした(原作「六道之沙汰」より)。

六道とは仏教の用語で、人間が生前の行いの善悪によって死後に巡る六つの世界、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道のことを言い、この六道を繰り返すのが人間であり、その繰り返しを輪廻転生と言います。

アニメに戻りましょう。
語り始めと共に、徐々に咲く沙羅双樹の花の演出と季節の移り変わりが平家の栄華を表現しています。

その栄華の中に身をおいておりましたことは、まるで天上界の幸福であるかのように思われました

『平家物語』11話より

栄華の場面の最後に徳子が語ったこの言葉通り、平家が天下だった時代は六道のうち天道にあたり、そこから残りの五つの道を巡っていくことになるのです。

人の世にある苦しみは、全て自分の事として思い知らされました

『平家物語』11話より

かつて「平家にあらずんば人にあらず」とまで言わしめ、奢り高ぶっていた時代に平家が人々に与えてきた苦しみが積み重なって返ってきたのだと徳子は悟っているのだと思います。言うなれば

"因果応報"

ここにもやはり仏教観がみられますね。

祈りの物語

「どうすれば苦しみを超えることができるのかのう」

この言葉と共に、アニメ『平家物語』の本質が込められた最も深いラストシーンに入っていきます。

「ただこうして祈りを…」
徳子の答えは、愛する人のご冥福を祈ること。ただ祈ること。
それはこの世で苦しみを味わった貴方が、どうか来世で幸せに生きられますようにという祈り。
仏教の輪廻転生に基づく意味合いが込められています。

また、徳子と同じく、別のどこかでびわも祈っています。びわは徳子と違い、物語を語り継ぐことで祈りを込めていました。それはきっとこんな内容ではないでしょうか。

どうか平家の人々が悪名ばかりで伝わりませんように
どうか彼らが人間らしく生きた証が残りますように
どうかこの物語を聞いた人が彼らのために手を合わせてくれますように

そんな彼女たちの想いを受け継ぎ、かつて平家や少女に関わった人物が口をそろえて物語を紡いでいきます。"その始まりは"、誰もが知っているフレーズから入る物語

祇園精舎の鐘の声…

『平家物語』より

いつか彼女が祈れなくなっても、いつか彼女が語れなくなっても、誰かが語り継ぎ物語は残り続けます。物語の中で彼女は祈り続け、語り手の想いは紡がれ、800年の時を超えた今でも語り継がれる作品となり、人々の心に残り続けています。

"800年の時を超える祈りの物語"

それは、『平家物語』という作品に触れた人々の"祈り"によって今も紡がれる物語ということ
諸行無常、変化する時代と共に様々な解釈を与えられながら語り継がれることで、作品としても生まれ変わり生き続けていく。
物語としても、作品としてもまさに輪廻転生を象徴するのが『平家物語』であると。そんなメッセージをこの祈りの物語から感じました。

"五色の糸"と言葉

物語のクライマックスです。
法皇が扉を開けると、そこにはご本尊の「六万体地蔵菩薩立像」が鎮座されています。法皇は心を打たれ、合掌。ここでも、法皇の祈りから『平家物語』が語られ始めますね。

熊谷直実、静御前、浅葱の方と続きますが、ここでハイビスカスが映る演出が入り、史実ではもういないはずの資盛が続きます。資盛は、壇ノ浦で最期を迎えたといわれていますが、生存説もありました。ハイビスカスは奄美大島など、暖かい場所でのみ咲く花で、アニメがこの資盛生存説を採用したのがなかなか面白いです。

場面は変わり、映るカットは白い彼岸花。白い色は、一途に相手を思う純粋な心を表し、その花言葉は「また会う日を楽しみに・想うのはあなた一人」という意味が込められています。まさに、びわはずっと平家のことを想い祈り続けているというような演出ですね。

「祇園精舎の鐘の声…」と共に流れるのは、五色の糸。それは、『平家物語』冒頭の語りに合わせてまっすぐのびていきます。
びわの声に重なるのは重盛の声。次第に重盛の声が大きくなっていくのは、平家の終わりを見届けていくにつれて、"先"を見る目で見る平家一族よりも重盛にもらった目で見る平家一族の方が多くなっていったから。また、この『平家物語』冒頭部分が終わった後、すぐに史実の歴史の舞台へと場面が転換するので、史実の人物へと移り変わるという意味で重盛の声に変わっていくという2つの意味合いがあるのではないかと思いました。

語りが終わっていくと、次第に五色の糸が絡んでいきます。その中でも、最後まで絡まない黒い糸があります。全ての色に仏教的な意味がありますが、仏教の中でも真言密教において黒は成所作智(じょうそさち)、すなわちすべての現世のものを完成させる智慧(ちえ)という意味が込められているそうです。
そんな黒い糸が絡まないということ、それは『平家物語』という作品は語り継ぐ私たち後世の人々がいて初めて完成する作品だという想いを私は感じました。五色の糸は掛け渡された者を極楽浄土へ導くというものなのですが、冒頭の語りと共に私たち視聴者に向けて掛け渡されているように流れているのはそんな意図が込められているからじゃないかな?・・・と。

語りは終わり、物語は締めくくりに入る。
六万体地蔵菩薩から掛け渡された五色の糸を握るのは徳子。先程も述べましたが、五色の糸には掛け渡された者が浄土へ導かれるという仏教的な意味があります。握る手の上にはアゲハ蝶。アゲハ蝶は平家の家紋である上に、仏教的に輪廻転生という意味が込められています。『平家物語』では見事にダブルミーニングになっているのが凄いですよね。

輪廻転生を表現するかのように、びわの姿は少女に戻り、落ちた沙羅双樹の花(平家の落ちた首の演出)は再生し、笑顔の平家一門が映ります

ここで笑顔の平家が映った場所は、六道の沙汰で徳子が法皇に伝えた「竜宮城」です。この光景こそ、徳子が見た夢なのだと思うともう…(泣)。
そして徳子とびわが何か言葉を発します。ここの台詞、色々な解釈がある場面だと思いますが、私は次の3つが当てはまると思いました。

南無阿弥陀仏
祈り、仏教、輪廻転生、灌頂の巻で描いてきた『平家物語』の本質を考えるとすべてに通じる言葉で、個人的に一番あてはまるのが「南無阿弥陀仏」かなと思います。口の動きも何となくそんな風に見えます(笑)。

どうか安らかに/どうか静かに
9話でびわが自分の使命が祈ることだと気付いた場面。浅葱の方に言われて、橙色の目で見た重盛たちに告げた言葉。こちらも祈りというテーマに合っていてぴったりですし、徳子とびわがそれぞれ違う言葉で重なっている演出だとしたら面白いと思います。加えて、PV第二弾でもこの「どうか」という言葉は繰り返し出てきますので、あてはまりますよね。

また今度
五色の糸が掛け渡される場面で冒頭に映った白い彼岸花もあり、その花言葉「また会う日を楽しみに」がここに繋がっていたとしたら面白いです。また今度というのは、「生まれ変わったら」という風に解釈することもできるので、輪廻転生という意味でやはりぴったりだと思います。

琵琶の音を鳴らし、最後はアゲハ蝶が空へ舞っていきます。ここで、1話を思い出してほしいのですが、1話の冒頭もアゲハ蝶から始まりました。アゲハ蝶は先程も述べました、平家の家紋であり仏教で輪廻転生という意味がある生き物。つまり、『平家物語』には1話から輪廻転生の意味が込められていたということです(Twitter1話の感想を挙げておきます)。本当に、仏教観として深い作品だったのですね。

ラストにはタイトルが出て終わる最終話、もう完璧すぎました。これが神回でなくて何でしょう?(反語)。

最後に余談ですが、タイトルの"平"の文字について妄想を垂れ流します。
この文字、左の点の向きが逆になっているのがどういうことかと話題になったのを見かけたことがあります。青と赤でびわの目を表しているのはもちろんですが、左から右の点へ円が描けるように見えませんか?ここまでの仏教観を踏まえて考えてみると、円=まわる=繰り返す=生まれ変わる=輪廻転生なんて考えられたり…。平を繰り返すってまさにそうですよね?(反語)。

終わりに

アニメ『平家物語』本当に素晴らしい作品でした。
2021年秋にFODで見てから、地上波放送でこの最終話が流れる日をずっと待っていました(笑)。
タイトルにも書きました、「アニメ史に残る」と思ったのは、たった数分間に込められた意味の深さが他の平凡なアニメと比べて尋常じゃないと感じたことと、"仏教"というアニメとして扱いにくいテーマに真っ向から挑戦し、この1話で10話までを完璧に回収し、歴史的・文化的に価値のあるアニメとして成立させたと思ったからです。このアニメで、心にしみじみと感じられて泣いてしまうという経験を初めてした気がします(笑)。

また、この11話だけでなく、作品としてもアニメ史に残ると思っています。なぜなら、大河アニメのパイオニアになったから。歴史モノは大河ドラマが映えるという固定概念を覆してくれた作品であり、今後さまざまな大河アニメが生まれるきっかけを作ってくれた、これは本当にアニメ界に大きな影響を与えたんじゃないかと思います。
この作品に出逢えて本当に良かった。制作陣の皆さん、これほど素晴らしい作品を作ってくださりありがとうございました。もちろん、ブルーレイも予約しました。そして、ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。初めてのnoteで勝手が分からず、お見苦しい文章になっている部分も結構あると思います。これからnoteで投稿するかは分かりませんが、その時が来ればもう少し使い勝手を勉強して書きたいと思います。
普段はTwitterでメインでアニメの感想挙げておりますので、もし良ければそちらもフォローしていただけると嬉しいです。この記事に対するコメント等も、Twitterお待ちしております。皆さんの解釈、是非共有したいです(笑)。
それでは、「どうか元気で。また今度。」

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