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ひとりの時間をもたない人は、信用できない

何年も前に購入し、読んだような気もするけれど読んでないような気もして読み始めるとすぐに知っているエピソードが出てきたこの本。

まずは、第二次世界大戦はそれほど遥か昔の出来事ではないことを改めて思い知る。

一方で、ほとんどの言葉は忘れている。
以前読んだ時にはさほど刺さらなかったり読み飛ばした部分も多々あるだろう。

その中の1つとして、タイトルにもあるフレーズが今回は最初に心に刺さった。

友だちと一緒にいるときの自分が「ほんとうのおれ」なのかというと、それはちょっと違う。たとえば近所の原っぱで遊ぶとき、ぼくたちはみんな「原っぱ行き」の切符を手にしているんです。おとなになってお酒を飲むときだって「居酒屋行き」の切符を手に、出かけている。「そういうおれ」として、出かけている。その切符があると、ほんとうにありがたいし、救いにもなる。でも切符がなくなったあと、誰も見ていない場所でひとり考える自分が、「ほんとうのおれ」なんですね。
なのでぼくは、ひとりの時間を持たない人は、あまり信用できません。いつもよそ行きの切符を手にしている人は、どこか嘘があると思う。

古賀史健がまとめた糸井重里のこと。

私はひとりの時間がないとしんどくなるタイプの人間だ。幼い頃からそれはなんとなく自覚していて、だけど昭和生まれの私にとってはそれはネガティブな意味合いでの変人扱いされているモヤモヤした空気をジワジワと鈍痛のように感じ、それは大人になっても続いた。

友だち多くていつも複数人で楽しげに集まっていて、
いつも予定埋まっていて、
朝まで飲んだり遊んだりすることも普通みたいにあって、
ノリが良くて、

みたいな人が評価されているような優位に立てるような人生を謳歌できているような、そんな風潮が何十年にわたりあった。

と、個人的にはそう感じている。

私は真逆のタイプなので、肩身の狭さをヒシヒシ感じていた。羨ましさはなかったが恨めしさの類の感情はざっくりと社会に対して抱いていた。

悪いことをしているわけでもなんでもなく、
ただただ自分のできることややるべきことをやって、
できるだけ人を傷つけたり迷惑かけたりしないように気をつけ、
親やら先生やら色んな大人が作ったルールとかも守りながら、
曲がりなりにも生きているというのに。

けど、そんなことを嘆いても訴えても嘲笑されるだけだろう。

「私はこれでいい。私はこれがいい」
と、大人しく、だけど、精一杯に自分自身を守って肯定して耐えていた気がする。

いつもグループで盛り上がっていることが好きそうな1人が苦手タイプの人には心を開ける気がしないし警戒していたのは、そういうことだったのかなと糸井さんの話にストンと納得した。
納得したというか、今までの自分が肯定された気がしてスッと心が軽くなった。

1人の時間を持っている自分がこれでもかというほど肯定された気分だ。

私は人付き合いが苦手だけれど、人見知りではない。
だから初対面の人と自己紹介する程度の表面的なやり取りは苦手じゃないしむしろ好きな方であったりもする。

だけど少しだけ関係ができた時に、
内心は色々思うことあるのに表面的に取り繕った当たり障りない言葉選びのやり取りをする雑談は苦痛だ。

表面的な会話なのであれば、
初対面レベルのやり取りまでしかできればしたくない。

または、竹を割ったように本音を言い合いながらも後腐れないような思いやりのあるやり取りがしたい。

それ以外は、もう、ちょっとしんどい。

だけど、「切符を手にしている」という感覚を身につければ、しんどさは軽くなるのかもしれない。

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