(パート1)超ミーハー国民日本への渡来と変遷
前回は「陰陽五行説」の歴史の流れについて軽く触れさせていただきましたが、今回は、その「陰陽五行説」がどのように日本に渡来し浸透していったかをご紹介いたします♪
1.まず文字が弥生時代らへんに入ってきました。
2.530年以前には百済から五経博士(ごきょうはくし)が人材として朝廷に献上。
ここで百済からエリートが亡命してきたりして日本の貴族に混ざっていきます。
3.602年には、暦・天文地理・遁甲方術(とんこうほうじゅつ)などの本の移入が行われる
4.聖徳太子により、陰陽五行思想(識緯説(しきいせつ)を内包した陰陽道)が政治に深く導入される
「冠位十二階」「十七条の憲法」「国史編纂(こくしへんさん)」など
※内容としては、一般的で普通のことが書かれているが数字を陰陽道の理論に沿って整えたらしい。。。
5.640年頃 国内での陰陽五行思想の研究がさらに進む。
呪術的祭政一致主義から法治主義国家への転換
祭政一致:祭は祭祀(さいし)、政は政治を表し、祭祀(まつり)と政治(まつりごと)が未分化で一致している状態をいう。(コトバンクより引用)
豆知識:ここら辺の時代に巫女や巫覡(ふげき)によって占いで政治のあれこれを決めていたので政治の政は「まつりごと」と呼ばれるようになりました♪
→律令制の時代の始まり=陰陽五行思想と儒教が結びついた徳化主義
律令:律(正文された法規)・令(律に対応する罰則)
律令制については”奈良まちあるき風景紀行”さんのサイトが分かりやすかったです!
律令国家(制度)とは何か?その内容や歴史をしっかり解説
徳化主義:”徳”が最上のものであるという考え方。
徳化主義が出てきてから、陰陽五行説がややこしくなってくるのです。。。
書いている私が息が詰まりそうだったので、今回はここまで!
次回はこの続きを書きますね♪
最後まで読んでくださりありがとうございました!^o^/
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