鏡の形が違うんですけど

 絵や写真の前景と背景を取り違える癖が幼少期からある。エッシャーのだまし絵のようなら美しいが、僕の場合、前景中央に視線が行かず、奥や端にいる小さな人や物を見入ってしまうだけだ。
 中学生のとき、話したこともない女子が写った修学旅行の写真(清水寺だったか)を買って友達に冷やかされたことがある。買った理由は奥の方でメキシコ人っぽい男性がこっちをにらんでいたからだ。 
 30年以上前、テネシー・ウィリアムズ原作の『欲望という名の電車』を初めて見た時も、主演のビビアン・リーやマーロン・ブランドよりも背景に視線が集中してしまった。悲しき習性だ。で、ビビアン演じる主人公ブランチが見つめる「壁掛けの鏡」が途中で形を変えることを発見したのだ。結構露骨に変形し、ご丁寧に最後の方で元に戻っていたりする。不思議なもので、その後僕はウィリアムズの演劇を研究するようになった。
 昨年、米文学研究の同志たちと『アメリカ文学と映画』を出版した。米文学作品の映画化について広く考察したもので、僕は『欲望という名の電車』を担当した。ウィリアムズと監督のエリア・カザンが、原作の魅力を損ねることなくハリウッドの検閲的存在だったプロダクション・コードと折り合いをつけるさまを考察している。
 そこで、鏡の件についても書いてみた。「小道具のケアレスミス」と即断せず、「意図的な効果」だと仮定したら、という具合だ。30年間酒席の小ネタでしかなかったものを公にするのは少し恥ずかしかったが、自分の欠点を活用できた気もして、ニヤニヤ笑いが止まらなかった。
(大分合同新聞 GX プレス ビジネス 2020年6月16日掲載)

補遺版


1.『欲望という名の電車』

 映画版『欲望という名の電車』の「二種類の鏡」についてだが、『アメリカ文学と映画』の出版直後に「よく気づきましたね」といった感想をちらほら頂いた。ありがたかったが僕にとっては造作もないことで、かえって恐縮した。「不必要なことに目が行く性格でして・・・どうもあいすいません」という気分だった。悲しかったのは、論文それ自体については、学会の中などで、あまり高い評価を頂けなかったことだ。この点については、「造作もない」などと言っておられない。大問題だ。「背景に視線が行っちゃう」よりも「高い評価を得る論文が書けない」ということの方が、僕にとってはよっぽど「悲しき習性」である。まあ、もう、いまさらどうしようもないが。
 なぜ鏡が変形したかについては、『アメリカ文学と映画』には書かなかった。妥当性のある論拠が得られなかったからだ。でも、ある程度の推測はできた。『欲望という名の電車』の監督を務めたエリア・カザンによると、彼らは撮影が進むにつれ、舞台となるアパートのセットを小さく作り変えて行ったらしい。CGどころかPCもない時代だ。登場人物たちの間で葛藤や緊張感が徐々に増していくことが、この演劇の「売り」なのだが、映画化において、カザンはその要素を、セットを小さくすることで「さらなる売り」にしたかったのだろう。ちょっと単純ではある。しかし、いずれにしても、さすがハリウッド映画。金はいくらでもあったのだろう。しかも、当時は「大人の色香」を漂わせ襲来してきたヨーロッパ映画の台頭にハリウッド映画はすっかり意気消沈していたときで、アメリカ発の「大人感覚」を担うべく制作された『欲望という名の電車』は、それだけ期待されてもいたのである。
 そんなわけで、セットの縮小化の過程で当初のものとは違う鏡が掛けられて、それに気づかないまま撮影が進み、映画が完成し、長年が経過し、最後に僕みたいな変わった人間がそれに気づいた、というのが妥当な線だろう。      しかし、あまりにも不自然な変形であることも事実である。巨人軍のキャップを被って野球していた子供が、5回の裏から突然広島カープの帽子を被っていたら「あれ?」って思うのが普通でしょう?二枚の鏡は、実際もうそのレベルの変形なのである。「あの子、なんでわざわざカープ帽?」って思うのが当然だ。
 なもんで、「小道具のケアレスミス」で片づけてしまう気が起きず、演出家や監督が何らかの効果を狙ったものだろうと仮定し、それを作品読解の補助線として機能させることを目指したのが僕の「二枚の鏡に関する論考」だったのだが、前述のとおり、あまりうまくはいかなかった。その理由は、身もふたもない言い方だが、そんな補助線が無くても、作品のメインの主題を読み解くことは十分に可能だったということだ。一面のラベンダー畑の100メートル前に、小さな看板で(「看板は鉄に見えるけど実は木製なんです」ってことも申し添えながら)、「もうすぐ絶景!ラベンダー畑!」って書いたような、無意味なことだったのである。「他人が気づかないようなことに気づいた」までは良かったが、そこから始まった作品読解は「造作なく誰でも気づける」というか、まあ、テネシー・ウィリアムズの研究者なら「誰でも知ってるレベル」でしかなかったわけだ。残念ながら、「ニヤニヤ笑い」は一過性のものでしかなかったのである。
 
2. 「シェイク・ユア・マニー・スー・パッ・パッ」
 「前景よりも背景に目が行く」という僕の習性は聴覚レベルにもあてはまり、「聴かなければいけない音」は頭の上をすり抜けるのに、「どうでもよい小さな音」が、顔を振ってどんなに防ごうとしても、ずけずけ耳穴に入ってくることが多い。大学生のとき、「近くの音は聴こえない」のに「遠くの音が大音響で聴こえてしまう」という特異体質の男を主人公にした小説を書こうとしたことがある。才能がないので全く進展しなかったが、そんなアイデアが生まれたのも、僕の「強弱・遠近逆転」の習性によるものだろう。ついでだが、その数年後に僕はアメリカの作家バリー・ハナの “The Spy of Loog Root”を読んで、ひっくり返ることとなる。それは、僕とほぼ同じアイデア(ハナは「遠聴【farhearinged】」という概念を創造している)を使い、ジミヘン的なサイケデリック・ロックの雰囲気をまとわせて、人間の異常性を前景化した強烈な小説だったからだ。そこで僕は、「アイデアなんて誰でも出る」けれど「それを芸術作品に結実させることができるのは一握り」と認識したのであった。
 で、僕の聴覚の習性だが、会議でも発言者の声に注意を向けるのに結構努力を要する時がある。そのくせ、雨の日の会議室の窓の外の雨どいが、落ち葉でもつまっているのか、ボコッとかトクンとか、規則的に微かに鳴っている音などには簡単に反応してしまう。ボコッが頭に居ついてしまい、なんなら、それとそっくりな音を出せてしまうくらいになる。授業中の私語に対して僕は割と厳しく対処するのだが、最低限の秩序を授業で維持したいことに加え、学生の私語が気になると自分の声が聴こえなくなるからというのもある。難儀な話だ。
 映画繋りで、ある映画で僕が体験した「音の前景と背景の取り違え」について書いてみる。中学校3年生のときだったか、『ブルース・ブラザーズ』を友人と見に行った。映画開始後10分くらいの、まだ冒頭と言える場面でそれは起きた。ジェイク(ジョン・ベル―シ)&エルウッド(ダン・エイクロイド)のブルース兄弟は、生まれ育った孤児院を訪問するが、そこでその孤児院が固定資産税を払えずに立ち退きを命じられていることを知る。優秀なミュージシャンでありながら強盗や万引も得意とする兄弟は「お安い御用だ。すぐに金を用意しますよ。慣れたもんっすから」と犯罪を介した金の工面を申し出る。すると通称ペンギンと呼ばれるシスターに激しく叱られる、というか、ぶっ飛ばされる。そこに登場するのが、二人の「育ての親」的存在のカーティス(キャブ・キャロウェイ!!)だ。カーティスは「坊やたち、尼さんには口の利き方に気を付けねえと」とか言って、ウィスキーを飲みながら事情を説明してくれる。で、そのシーンで、聞き覚えがある程度では済まない音楽が微かに鳴っていたのだ。本当に微かに。
 すぐに本線に帰ってくることを約束して、ここでちょいと脱線させてもらうと、僕が自分の意思で初めて買ったレコードはダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」で、当時僕は7歳だった。僕らの世代の「最初に買ったレコード」はまず間違いなく「およげ!たいやきくん」なのだが、僕のそれは、喫煙デビューを飾ったやんちゃな高校生の歌だった。「♪目覚めの一服、食後の一服、授業をさぼって喫茶店で一服・・・♪」とリーゼントにつなぎのいでたちで陽気に歌う宇崎竜童たちは、僕にとっては「クールを煮詰めてエキスにした」ような存在だった。音楽的には、♪ダン・ダン・ダン・ダダン♪というギター・リフにスライド・ギターが絡みつき、そのスライド・ギターが奏でるメロディーが「♪ス~・パッツ・パッ♪」のコーラスに引き継がれていく展開がなんとも印象的で、銭湯で頭を洗いながら♪ダン・ダン・ダン・ダダン♪と歌うと、高校生や大学生のお兄ちゃんたちが湯舟から「♪初めて試したタバコがショート・ピィ~ス~♪」とか「♪ス~・パッツ・パッ♪」とか歌ってくれたのを思い出す。
 『ブルース・ブラザーズ』の問題のシーンで微かに鳴っていた音とは、その「スモーキン・ブギ」のリフだった。もうセリフが耳に入らない。中学生だったのでどうせ英語は聴き取れなかったが。当然だが字幕にも視線が行かない。♪ダン・ダン・ダン・ダダン♪ばかりだ。「スモーキン・ブギが流れよりゃせん?」と連れの友人に聴くと、友人は「シッ」と人差し指を唇に当てて睨んでいた。「これスモーキン・ブギやで・・・ん?ちょっと違うか?」と混乱し、そのあとは英語のシャウトが聴こえ出し、「なんや?なんや?」と言っているうちに、シーンは兄弟が教会に神父(ジェームス・ブラウン!!)のゴスペルを聴きに行くシーンに変わっていた。
 大学生になって、『ブルース・ブラザーズ』のビデオを見るまで、「スモーキン・ブギ」をめぐる不思議な出来事の真実は霧の中だった。ビデオであのシーンを見てみると、例のリフの後に続く歌詞は、“I got a gal that lives out on the hill”で、サビの部分は “Shake your money maker”の連呼だった。これがまた、強烈にセクシャルな歌で、女性に向かって「腰振れよ」「尻振れよ」と連呼しているわけだから、「♪ス~・パッツ・パッ♪」とか「♪糞して一服♪」なんてまだまだかわいいものだった。
 こうなると後はもう簡単で、レコード屋の渋い趣味のおじさんに「Shake your money makerって曲、わかります?」って訊くと、「エルモア・ジェイムズに決まっとろうが」。おじさんはハイライトを吸いながら「お前、ダウンタウンの『スモーキン・ブギ』知っとる?」と言い、店の奥からギター持ってきて例のリフをひいてくれた。「スモーキン・ブギ」は「シェイク・ユア・マニー・メイカー」への敬意に満ちたオマージュだったのだ。
 直後にもう一度ビデオを見てみると、映画館で僕が聞き逃したセリフの中で「エルモア・ジェイムズの曲を歌ってくれたりしたし」とエルウッドがカーティスに話していて、「ヒントがあったんやな」とニヤニヤ笑った。
 ブルース兄弟はバンドを再興し、一夜限りの興行で大金を得て孤児院を救う。犯罪ではなく(結末で、二人だけでなくバンド全員が刑務所に入れられてしまうけど)、兄弟は自分たちが最も得意とするmoney maker(音楽)をshake(演奏)したわけだ。そう考えると、「シェイク・ユア・マニー・スー・パッ・パッ」のシーンは、映画のプロットとメッセージを凝縮した重要な場面に他ならないと、ニヤニヤ笑いで結論付けることが可能と言えるであろう。
 ああ、『欲望という名の電車』についてもこんなふうに書けたらよかったのになぁ。
 
 

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