何て言うだろう
「ナンシー関が生きていたら、何て言うだろう」といつも本当に考えている。18年前、彼女は唐突にいなくなった。それ以来、日本文化には誰も埋められない巨大な穴があいたままだ。
テレビ・芸能を中心とした彼女の批評(リアルな消しゴム版画が添えられていた)は、辛辣さとユーモア、精緻な観察眼と独自の論理が同居する芸術だった。巨体を縮めて恥ずかしそうにささやく実像とのギャップもほほ笑ましかった。
僕らは、ビートたけしの「誰も疑わないものをあえて疑う」姿に憧れた世代だ。たけしの影響を公言していたナンシーは、その「疑念の哲学」の秘孔を突いて鋼の強度にしたような人で、同格の者たちに決定的差異を知覚し、絶対的評価を受ける者の致命的問題を指摘した。ヤワラちゃんの政界進出を15年も前に予言し、有吉弘行の本性を猿岩石時代に探知し、大相撲・若貴兄弟の不自然さを二人の全盛期に嗅ぎ取ったことは、今や伝説だ。
比喩や例えも驚愕の秀逸さだった。エッセイ集『何をいまさら』で、清原和博選手と松井秀喜選手を「超高校級」と称賛するも、その違いに目を凝らし、前者を「お母さんのお腹の中に5年いたのではないか」、そして後者を「遠洋漁業のマグロ船に乗っていたのではないか」と述べた際の閃光は、僕にとっては永遠である。
ナンシー関ならYouTuberについて何て言うだろう。Mー1については?坂上忍について?本田圭佑?大谷翔平は?アメリカ大統領について?日本のファーストレディーは?東京オリンピック?そして、僕たちの爆笑王がナンシー関と同様に、突然いなくなったことについて。
(2020年5月19日「GXPRESSビジネス」掲載)
【補遺版】
1 志村けん
最初は志村けんさんについて書くつもりだった。2020年3月29日に、コロナウィルス感染が原因で志村さんは亡くなった。「茫然自失ってどういう意味だっけ?今のこの感情を表せる四字熟語なのか?」と言いたくなるほど驚愕し、落ち込んだ。TVは騒ぎ、時にコロナの恐怖とコメディアンとしての志村さんの功績を並置するような場面もあった。中には「最後の功績」などと、信じられない言葉を吐く人間までいた。吐き気がした。
遠い目をしてPCに向かい、白い画面にぽつぽつと、「コロナの姿が見えたなら、志村に『後ろ!』と伝えたい」と打ち込むと、急に涙があふれ、そのまま声をあげて泣いた。研究室だったので「学生が訪ねて来たらどうしよう」と焦った。結局、その後を継ぐべき言葉は何も思いつかず、ファイルごと消してしまった。
今書いた、桂歌丸師匠が『笑点』の冒頭の挨拶で述べる川柳のような文言は、ふざけて書いたわけじゃない。「爆笑王の逝去にあたり、無理してでも何かユーモラスな言葉を・・・」とは確かに思ったが、「コロナの姿が見えたなら・・・」は心から出た言葉だった。
『8時だヨ!全員集合』で育った人なら、ご賛同頂けると思う。番組前半の演劇的な大がかりなコントでよく見た光景。忍者修行のドリフターズが、暗がりの中で相手の気配を感じながら手探りで戦う場面だ。志村けんの後ろに敵が回り静かに近づいてくるも、志村はそれに気づかない。二人に白か青のスポットライトが当たる(ピンクのライトなら加藤茶の「ちょっとだけよぉ~」だ)。敵が刀や棍棒を振りかぶると、ドキドキするようなBGMが流れ、志村はきょろきょろするばかり。その瞬間、中継会場にいる都会の幸運な子供たちだけでなく、毎週テレビの前に座っていた僕ら普通の田舎の子供たちも、とにかく日本中の子供たちが、「志村!後ろ!後ろ!」と喉が裂けるほど絶叫したのだった。
演劇では演者と観客の間に透明の「第4の壁」があるのが大前提だが、我を忘れた子供にそんなものは関係ない。僕らはそれだけドリフのコントに夢中になっていたし、それだけ志村けんを深く愛していたのだ。僕らとドリフは、第4の壁を笑いと愛情で取り去った関係だったのだ。
「コロナの姿が見えたなら・・・」とこの2年半本当にいつも考えてきた。この数か月後に僕は、「役に立たない話かもしれませんが」の中で、「コロナの姿が見えたなら・・・ちちまわす」と書いた。「ちちまわす」という乱暴な言葉がつい出てしまった根底には、僕らが心の底から大好きだった「爆笑王」の突然の死があった。「志村!後ろ!」と叫び、「ちちまわす」を日常的に使っていた幼少期の心―絶対に冬が来ない穏やかな牧草地みたいなところで、何ものからも絶対に傷つけられずに永遠に静かに草を食んでいる牛の群れみたいな平和な心情―それを目の前に引きずり出されて粉々に砕かれた気がした。想像を絶する悲しみだった。
2 ナンシー関
だから、ナンシー関について書くことにした。本文にある通り、僕は「ナンシー関が生きていたら・・・」といつも思っているからだ。ナンシー関なら、志村さんの死について何て言うだろう?でも、答えは想像できた。
大学生のとき初めて読んでからずっと、ナンシー関は僕の憧れの人だ。ナンシー関がいなくなってもう20年になるが、尊敬の度合いは増すばかりである。「ナンシー関のような文章を書きたい」、「ナンシー関のように考えたい」といつも思っている。仕事柄、学術論文などというものも書かざるを得ないのだが、そこでもやはり、ナンシー関みたいな文章で、ナンシー関みたいな切り口で書けないかと無駄な努力を試みる。デリダ、フーコー、サイード、ドゥルーズ・・・文学批評の神様たちも僕の中ではナンシー関より下にいる。
現実的に考えてみると、ナンシー関は、もし彼女がまだ生きていたら、「書くのをやめていたのではないか」と思ったりする。現代メディアの規範の中では、彼女の文章は「辛辣すぎる」と判断されるかもしれない。書き手の本意とは異なる形で断片だけが切り出され、悪意に転換されながら、ネットを渡り歩いて拡散されることも頻繁だ。アイロニーやブラックジョークと誹謗・中傷の境目は薄れ、結果として、大きな誹謗・中傷の渦が生じる。ナンシー関が令和の時代に生きていたら、時代が要請する規範と自らの才能のバランスを取ることを放棄したかもしれないと思う。
むしろ、あの「消しゴム版画」のほうが令和のコンプライアンスを生き延びていたかもしれない。文章に添えられていた「消しゴム版画」のリアルさは、対象とされた人間の内面までをもつかんでおり、絵とともに彫り込まれていた短いフレーズは信じられないほど的確で、常に爆笑ものだった。いま流行りのLINEスタンプの原型とも言えるだろうが、だとすると、その領域の水準はオリジナルからどんどん退化しているな。
おこがましいし恥ずかしいので、おずおず言ってみるが、僕は「役に立たない話かもしれませんが」を書いているとき、ナンシー関の消しゴム版画をイメージしている。字数制限は680字程度。書きたいことを書いてみると、いつも2,000字以上ある。それを凝縮する際に、僕は、下手くそだけどもとりあえず、僕なりの「消しゴム版画」を、文章で掘っているのである。
ナンシー関の偉大さは、「誰もが思っていること」を「誰も思いつかない切り口」で見て「オリジナルな表現」で書いたことにある。この「最大の共感」、「独自の分析眼」、「意外性の語り」の組み合わせは、実は模倣は簡単だ。実際、ナンシー関の死後、そんな人間をあちこちでかなり見た。Lineスタンプみたいなのがちらほらいた。しかし、ナンシー関のレベルに達することなど誰もできない。秀逸な技術を持ったスタジオミュージシャン達が集まってコピーしても、完璧にはコピーできないロック・バンド(ムーン・ライダーズか?)― ナンシー関はそんな地平に立っていた天才だった。
彼女が語る「最大の共感」は、ときに僕たちの無意識レベルにあるものだった。つまり、「ナンシー関に指摘されて初めて」僕らは自らの深い感情を認識したのだ。一例を、ナンシー関の志村けんに関する文章から挙げてみる。ナンシー関は1989年に、「私は心の底から『志村けんと石野陽子が結婚すればいいのに』と思う」と述べた。驚いた。「あぁ・・・そうか・・・あぁ・・・そうだよな」と思った。次の瞬間には、もう随分と以前から、「志村けんと石野陽子が結婚すればいいのに」と僕も願っていたような気がした、というか、間違いなく僕はそう願っていた。ナンシー関の言葉が僕の無意識を意識化してくれたのである。
「どこで二人が食事した」とか「深夜のマンションに二人で帰って、朝まで出てこなかった」とかの週刊誌的視点をエビデンスにしないところが、ナンシー関が天才たる所以である。彼女は、志村さんと石野さんが共演していたTV番組『だいじょうぶだぁ』のコントを鋭く分析し、「結婚すればいいのに」という結論へと至る。石野がコント中に「ふと嫌そうな顔をする」ことに着目し、しかしそこには志村に対する石野の「絶対的信頼」が「垣間見られる」と分析し、それはもはやコントを超えた「世間的レベルでの夫婦関係に近い」と断言し、結論で「心の深い部分にある情」という適切で独自性のある言葉を使い、「結婚するに違いない」(実際はそうならなかったが)と述べ、「余計なお世話か」と添える。身震いするほど素晴らしい。完璧だ。
ナンシー関が生きていたら、何て言うだろう?「最大の共感・意外性の語り・独自の分析眼」のDNAをナンシーと共有する有吉弘行やマツコ・デラックスに対しては、生前と変わらず惜しみない賛辞を(もちろん意外性の語りで)送り、コンプライアンスを巧みに泳いでいく二人に敬意(ふとした仕草や表情から分析を開始して)を表しただろう。トランプ大統領に対しては、発言や政治性よりも髪型やしゃべるときの口の形に目を凝らすだろう。大谷翔平については・・・多分だけど、彼のアスリートとしての紳士的なふるまいやかわいらしさに対し、それが「大学推薦や内申書の点数をねらうあざとさ」からかけ離れた、「だってお母さんが見てるから」的な「良い子」のイメージを持つことをあげ(実際の大谷選手がどうかは知らないが)、平成・令和の時代で部活に励む中学・高校生男子とその母親たちの、昭和の母・息子では考えられない、「仲良し」な関係性をどこからか(雑誌の編集者の奥さんかなんかから)聞きつけてきて、最終的に「部活母ちゃんたちが作った完成品」とかなんとか言うんじゃなかろうか?
では、志村さんの死について、ナンシー関は何て言うだろう?
きっと何も言わないだろう。志村さんの死についての報道の仕方や、TVに出てくるウィルスの専門家と名乗るコメンテータの発言などを取り上げて、「聖人扱いするのは志村けんを冒涜するのと同じ」とか、「毎日テレビに出てるけど、なんだろう?この人、いったい」とかは言ったかもしれないが、志村さんの突然の死、それ自体については、ナンシー関は何も言わないはずだ。ナンシー関はそんな人だ。僕はそう思っている。
3 上島竜兵
この補遺版を書き始めた2022年5月10日の朝、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんの訃報が伝えられた。志村けんさんの弟子のような存在だった上島さんの死にあたり、テレビは、志村さんとの深い師弟関係や、仲間の芸人との熱い友情を紹介し、そして現代のコンプライアンス下やコロナ禍であの芸風を維持することの難しさに上島さんが悩んでいたらしいことも伝えていた。上島さんの自宅前から中継して厚労省に叱られた局もあった。で、やっぱりナンシー関を思い出した。ナンシー関なら何て言うだろう?答えは「何も言わない」だとわかっていたけど、それでもやっぱりナンシー関のことを考えた。
僕らがダチョウ倶楽部を本気で考察するようになったのは、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』での、体を張ったリアクション芸を目にした時だった。考えようによっては、極めて効率の悪いやり方で笑いを取りに行くその姿勢の潔さに敬服した。ビートたけしが「くだらねぇなぁ」と涙を流して笑うのを見て、自分のことのように達成感を覚えた。志村けん、ビートたけしのお笑いの両巨頭に愛されたダチョウ倶楽部は、創造神と破壊神の両方から評価された完璧なトリオとなり、僕らの心に敬愛すべき存在としてその場所を得たのである。
そんなダチョウ倶楽部についてナンシー関は、1991年に、やはり『ウルトラクイズ』での彼らの活躍ぶりを分析してみせた。そこでのダチョウ倶楽部の無双ぶりについて、番組内に「さすがにダチョウ」「待ってました!ダチョウ!!」という空気が出来ていることを感知し、リアクション芸の革命的トリオを賞賛した。「いじめの温床」という批判には「上島が至福の表情をしていたことに気づかないのか」と反論し、そして、添えられたダチョウ倶楽部の消しゴム版画(なぜか三人とも真面目な顔だった)には「ダチョウにはかなわない」の一節を彫り込んでいた。それを読んで僕らが、「ナンシーもダチョウも最高!さすが」と唸ったのは言うまでもない。
上島さんの死を伝える朝のワイドショーで、上島さんの近況を伝えていたアナウンサー氏が、「上島さんは、ここでも陽気に『だー!』をやっていらして・・・」「このイベントでも上島さんは『ダー』のポーズで明るく・・・」などとしんみりと言っていた。あのね、ちょっといいですか?「やー!」だから。「だー」じゃなくて「やー!」。ダチョウの挨拶は「やー!」。ちゃんと伝えろよ。それを見ていて、「ああ、ここに上島竜兵がいたらなぁ」と思った。上島竜兵なら「お前、やってくれたな。なんだ、さっきから『だー!だー!』って、俺たちのは『やー!』だよ。『やー!!』。お前何年アナウンサーやってっかしんねえけど、やってくれたな。いいのか、ええ?そんなことで。『だー』は猪木さんだろ?俺たちのは『やー』だよ!!」とか言いながら不満顔でアナウンサーとの距離を詰め、さらに「だいたい、失礼じゃないか。ひとのギャグを間違えて!そういうことだから・・・やんのか」と続け、ついにはそのアナウンサーとキスをする(今ならアクリル板越しに)か、それが無理な環境ならば、「すいません、取り乱しました」とか言って、叩きつけた帽子を拾い上げると「クルリンパ」に間違いなく持ち込んだだろうになぁ。それがもう見られないと思ったら、本当に悔しくて涙が出た。
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