薬師寺文夫のブランデーケーキ物語
今から80年以上前、昭和16年のこと、大分県臼杵市の小さな漁師町に薬師寺文夫という少年が生まれました。彼は次男として生まれ、幼い頃に大分市の親戚の家に丁稚奉公に出されました。その親戚の家は「かちどき」という菓子屋で、文夫は毎日朝から晩まで菓子作りと雑用に明け暮れる日々を送っていました。
ある日、文夫の勤勉さを見込んだ師匠が、「福岡で菓子の大会があるから勝負しに行くぞ」と声をかけました。兄弟子たちがいる中で、文夫は唯一の助手として第1回全九州山口県菓子展示大品評会に参加することになりました。この大会は、現在の全国菓子大博覧会の前身となる大きな品評会でした。
文夫は喜び、さらに修業に励みました。しかし、大会に向けて出発する前夜、師匠の母親が亡くなってしまいました。店主は「今まで師匠と共に試作を重ねてきたのだから、お前ひとりでも十分できる」と、16歳の文夫に大役を託しました。文夫は15歳の若さで汽車に乗り、大分からひとり福岡へと旅立ちました。
大品評会の会場に到着した文夫は、無我夢中で作品を仕上げました。そして、結果を待つことなく大分に戻る汽車に乗りました。汽車の中で、文夫は「師匠の教え通りに作れたのだろうか」「師匠の菓子の魅力を十分に引き出せただろうか」と自問自答しながら時を過ごしました。
大分の駅に着くと、師匠が出迎えに来てくれていました。師匠は大声で「文夫!県知事賞とったぞ!!」と叫びました。文夫が福岡から大分に戻る間に結果が出て、早速「かちどき」に連絡が来ていたのです。「えっ!本当ですか!」と驚く文夫に、師匠は「文夫、お前が福岡に行って作った菓子が評価されたのだから、この賞はお前のものや!」と言いました。何とも粋な師匠でした。
16歳の文夫にとって、それは夢のような出来事でした。第1回全九州山口県菓子展示大品評会福岡県知事賞、そして、その賞をもらうきっかけとなったお菓子が「ボックスケーキ」にも別に感謝状が贈られた。このお菓子こそ、のちに「ブランデーケーキ」と呼ばれるようになった文夫の生涯をかけたお菓子でした。こうして、薬師寺文夫のライフワーク「ブランデーケーキ」の物語が始まったのです。
薬師寺文夫は、その後、27歳の若さで山口県宇部市に「ロイヤル」という菓子店をオープンしました。彼の才能と努力は、昭和、平成の時代を通じて全国菓子大博覧会で数々の賞を受賞することで認められました。
そして、時代は令和に移り、令和元年には彼のブランデーケーキが農林水産省主催のフードアクションニッポンアワード2019で最高賞を受賞しました。この栄誉を見届けた翌々年、薬師寺文夫はその生涯を静かに閉じました。
彼の人生は、菓子作りに捧げられた情熱と努力の物語であり、その遺産は今もなお多くの人々に愛され続けています。
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