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2841文字、ある問題について持つ持たない、ある問題について注力するしない、これらが肯定される条件に関する話

2024-10-007

ある人における、問題Aには興味がなく問題Bには興味があるという有り様も、実際にどの問題に注力してるかという有り様も、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存、存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させない態度であるこれを、
その人が生きてるのなら修正余地はなく、そうでないのなら修正余地がある(受容に値する状態にまで持っていけてない)わけです
(対問題をその実存の下で展開していてやっと、対問題の個別性は肯定される)。



ある主体が社会(大小様々)に置かれ、具体的有り様やポジションを割り振られた。
ある認識対象が認識主体の認識場に置かれ、その認識場が持つ偏り(価値の差異)に即した扱いを受けた。

これらだけでは、足の速さが問われてる状況で家柄の差異なり、薬の効き具合の差異なりが序列に反映されてる的な茶番である可能性
(負うに値しないものを負わされてる事態の生じてる可能性)が潰されてるかどうか分かりませんが、

受容に値する状態へと持っていく働きとして知性倫理美意識が機能してるなら、
認識場の個別性が代替不可能な内外事情にしか応じない実存の帰結である場合と実際有り様とのズレ部分を修正余地として扱い、
社会の個別性が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の集積の帰結である場合と実際有り様とのズレ部分を修正余地とするはずです。


(有と無が完全一致でない場合、それらすら有限の次元に属していて、無限者以外は有限性が与件ですが、
より確からしいものが取って代わる運動性を、有限性が受容阻害最小で受容してる結果の有限性有り様は修正余地がなく、したがって、受容に値すると見なさざるを得ず、

対して、有限性は内外境界線の発生を意味する為、内外性質の取り違え、あるいは、それと同等である不十分な抽象化具体化は、受容に値せず、
数学の追究が抽象次元の通用領域拡大であるように、一見無価値に思える検討行為も抽象化具体化不十分さ解消の一環であれば、受容に値する状態へと持っていく働きですし、


開かれてる状態を価値判断によって損なうのを恐れるのは、有限性に修正余地なさを持たせるという論点を、
ひいては、抽象化具体化不十分さ解消を、有限の与件性と向き合わない実態軽視によって損なう為、その働きが機能してるとは言えません。

もっと言うと、言語化はじめ、取りこぼしが生じる処理を個別性への不当な扱いと捉え、取りこぼしの発生前状態の重要性を訴えてる内容の主張は、
個別性が根拠になる局面での個別性に対する同種の他との共通要素捨象を教育しない為に、

既存の教育と整合的な人は、抽象化具体化にその捨象を用いるべき状況では知性倫理美意識が機能しない、という話の一例であって、
限定作用は場が持たざるを得ない偏りの反映であれば、仮説にとっての改善を上限化させる検証情報を齎す処理に等しく、限定作用の発生自体は論点でないとか、

実存は常に具体化の結果であり、フィードバックに値するしないを意味する具体化精度高低が論点であるとか、
こうした個別性の取り違えを論理飛躍として扱う知性倫理美意識なら持つはずの理解の欠如の現れです。)



通用してる領域の広狭と確からしさとの相関(肯定否定保留の根拠)を持ち出す際の観点にもこの相関を適用してるレベルで、この相関にしか頼ってないなら茶番可能性を潰しにいく事になるのに、
実際は、同種の他との差異要素捨象の能力は教育されても、同種の他との共通要素捨象の能力は教育されず、
代替不可能な内外事情にしか応じない主体像への志向を持たないし、支持しない方向に、

つまりは、根拠への不徹底な態度、ひいては、上の働きの意味での知性倫理美意識が限定的にしか機能してない状態に誘導されていて、
この誘導に付き合ってる限り、自身の対問題有り様(置かれてる場に通用させ続けるという存在してる時点でこなしてる存在課題、
種レベルにも個体レベルにも個体の構成要素レベルにも帰属があるこれの持たれ方込み)も、肯定されないもの(茶番選抜)であり続けてると解しましょう。

(方法的懐疑はこの相関の適用を徹底してるように見えて、認識主体が認識対象を置く場の個別性の取り違え不問を齎した以上、
この相関を持ち出す際の観点にこの相関を適用しない不徹底、つまりは、通用が行き渡っていなさが言えてしまいます。

デカルト系に限らず、個別性の取り違えという飛躍状態の有無を、個別性捨象によって無視するカント系も、
対立解消への志向によって無視するヘーゲル系も、形が異なるだけで飛躍を保存する有害性は同じです

代替不可能な内外事情にしか応じない実存への志向を支持するしないの差異をもって、
個別性の取り違えを論理飛躍として扱わない認識枠組みを乗り越えているいないを区別し、
その実存でない生を肯定してる内容の発信者に対して、2+3を10とか0とか言い張る理系者が理系空間から受けるのと同じ位置づけを持ちましょう。


例えば、外在場の取り違え最小な個別性に即した割り振りへの支持の意味でのフェアを、
越えた他者救済への善行扱いも、越えてまで自己を助けない方針によって捨象される問題を捨象せず、振り回されてる状態への共感対象扱いも、たとえ無自覚であれ、

短距離走で二位の人は一位の人に通用しなかったという話である以上、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関の対象であるのに、
何の差異に関するこの相関なのかを操作できる点に付け込んだ、ドーピングによる金メダルを、

茶番選抜扱いしてくる者は否定し、茶番選抜ではないかのように受容する者は肯定する対世界と何ら変わりませんから、
論理飛躍レベルで除去対象とする文脈での個別性の取り違えへの敏感さ、特に、飛躍を含まない成立を余裕がないのに求めるのも、余裕があるのに求めないのも、局面事情の取り違えとして扱う内容のこれは、

世界が、当然そこに置かれてる諸々が、負うに値しないものを負わされてる程度を下げるのに必要な条件であり、
人によっては、世界の創造原因に対して尊重してる側、例えば、帰属操作が飛び交う奪い合い世界な有り様の責任を擦り付けず、
論理概念を矮小化してる人達に責任を帰属させてる側に属すると証明するのに必要な条件になる、そう解しましょう。)



プロフィール記事で言及してるように、宗教的事象に対する具体的立ち位置は、
宗教的情報に対する検証態度が厳格であるとの印象を受ける宗教家の方の説明に準拠する方針なので、
魂論自体に言及する(魂の実態に関する情報を自己判断で評価する)つもりはないのですが、

上で見たように、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小化してない状態と、知性倫理美意識の機能不全とは繋がってるとする立場なので、
少なくとも、魂やその種の何かを改善対象(個体を具体化条件としつつ、抽象化具体化の精度最大化の下での交互反復が内容のフィードバックを受けるべきもの)としてない解釈には与さない側であるとは言えると思います。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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