批判能力が機能するのを阻害してる現象観があって、理解力や対割り振られ(損得、役回り)に、いらぬ限界を作ってるのでないか、という話
2020-11-007
情報に対し、場との齟齬程度という意味での質の違いを見ない(扱い差に反映させない)せいで、機能不全を来してる(より確からしいものが取って代わる運動性への阻害を拾い上げられない)状態に批判能力があると、
実質が詰まっているいないの側面が欠落した理解(フェアな優勝とアンフェアな優勝を区別してない的、帰属の把握にいらぬ限界を負ってる理解)しか得られないと想像されますし、
不当利得試みに付け込まれる隙を持ってるという意味でスカスカでも疑問を持たない以上、理論はじめ体系への肯定否定は、実際に隙が有っても塞ぐ方向に働かないどころか足を引っ張るものにもなり得る上、
不当利得に加担してるケースも全然あり得てしまうのに、それらを自身に許してるようなものです。
近代パラダイムの枠内に知性や倫理がある限り、文系域での批判能力はその状態に留まる為、己の非を認めずに済むのと引き換えに、
対象(近代パラダイムの産物や影響部分含む)の理解が形式面しか得られず、現状や修正(方向や進捗も)への肯定否定が実質の有無と重ならない上、
事実上のポジショントークへと矮小化(権益対立観点による論点取り違え)した生しか送れなくなってしまう形です。
次元設定自在性(人間性)が、局面と着目無視との合致の下での振る舞いに徹する姿勢(差異への反応の方針)に紐付けられているいないの観点で、
自他を評価する等(帰属の操作の炙り出し)を欠いたまま情報の量や差異パターンを追う有り様
(量追求の副産物としての洗練にしか質を見ない価値観、内在での囚われを除去対象としない自由観)は、
外に解決求める方向に偏った現象観の現れと想像されますから、
内在の性質と外在の性質が合わさって現象となり、両性質の代替不可能程度が現象の確からしさに当たる
(認識も存在もより確からしいものが取って代わる運動性によって成り立ってるのに、知性や倫理の矮小化、つまり、代替不可能要素の特定や代替可能要素への代替不可能扱い忌避の矮小化により阻害されてる状況が問題)
という現象観を、
近代(内外分離による洗練が始点)パラダイムが未だ損なわせてる(世界標準の知性や倫理、ひいては、教育を縛ってる)という像をまず押さえる必要があるように思われます。
(前者の現象観は、近代パラダイムな情報を盲信的に受け取る事によりスパイラル的に強化されると推測されるので、
獲得自体は一桁でも後半の歳になれば可能な人も全然出てくるだろう、上の姿勢ができるだけ早く獲得されるに、いらぬ限界を帰属の把握能力に負わせない為にも、越した事ないはずで、
これまでの教育に対し上で言う像を認める人を増やす事によって、そこの獲得促しを教育体系に組み込む方向へと寄せる働きかけが実際的には必要かと思います。)
実質が詰まっているいないと関係なく利得や不利益回避を語る生、善や正義のニュアンスを出す生も、
(矮小化は帰属が操作されてる事態と言え、帰属の操作は分捕りの当事者を意味する為、対立構図による矮小化枠組みを前提化させてきた近代パラダイムに頼った主張しかできないのに、そのニュアンスを出してた場合、
分捕りや泣き寝入り強いの為の道具化の側面を善なり正義に対し持ってしまうので、出るにせよその側面を抑えた上でにすべく、
帰属の操作の余地を潰す方向に重なると期待できるフェア志向について、その有無次第で形骸もある、との立場に立つべき)
これは確からしいけれどあれはそうでない、といった判定原理の提示(主張に付随してる上、何かに反応するという時点で、事実上の主張発信は不可避)やその原理への批判が不当なものとなるのを許してる、
その批判を原理の確からしさ向上に最大限繋げようとする(確からしい批判には開いておく)姿勢の欠如、批判能力に対する実力十分化まで影響力行使控えや実力向上の働きかけの欠如、それらに由来すると捉えると、
利己利他の対立構図への矮小化も次善の策(局面上のやむを得なさ)に留めた、損得や役回りの割り振りが各場の本質に即してる(フェア)なら納得してくれる人を増やす方向性が本筋となってる倫理状況へと向かう事なく、
フェアを越えて自他を助ける枠組み(近代パラダイムの産物な既存の権利観含む)の採用という間接的に分捕りを支援してる形にならざるを得ないスカスカな体系に留まってる世界の現状への対策には、
現象観の(批判が機能する方向への)更新も必要あるとなるはずです。