政治を改善するのにも、まず教育者の皆さんに、内実の確からしさの差異への無視が常態化してる人を、そのまま社会に送り込むのを止めてもらう必要ある
2022-4-003
政治や対政治を改善するには、まず教育者の皆さんに、
表層形が同じなら内実の確からしさの差異を無視するのが常態化してる(余裕有無や文理差異などの、局面事情からの要請とは関係なしにそうしてる)子どもを、
受験で必要になる能力に現状関係ないとはいえ、そのまま社会に送り出すのを止めてもらう必要があると考えます。
足の速さが問われてる場では、足の速さ差異が取り出されるように諸々を組み上げる
(この組み上げ妥当性の差異が、問いへの解答にとっての、場がその偏りによって割り振った結果にとっての内実差異)わけで、
場の性質と組み上げの有り様との合致の話(もちろん、組み上げにおける硬軟の配置も前者次第)として政治もある
(管理者立場とプレーヤー立場、双方が協力しない事には帰結の組み上げは合致を満たさないとの理解が、他方への要求の根拠である)と見るべきです。
しかし、場の上に立ち上がってるものに合わせる合わさない(場から押し付けられるものを受容するか、都合を押し付け返すか)の二択へと話を矮小化して、
その合致の観点(修正の根拠)が埋没されられてる事態も珍しくないと言えます。
実際、内面世界も社会も場であるのに、どちらにもその観点を適用するのではなく、上下論にしてしまってる主張が通ってきたわけで、
場が無数に有る、場の性質が変化する事もあるとはいえ、場があれば上の合致の話しかないと捉えるべきを、そうなってない原因として、
場において割り振り原理となってるものが疑似化してるしてない(例えば、市場や民主制において需給事情を構成してる個々事情に対し、代替可能な要素を削ぎ落せているいない)を気にしない、
個々具体の次元から、個々具体全体に通用してる(文系的な捨象を用いて通用させた)抽象次元に遡った上で、個々具体を捉えているいないを気にしない(具体化条件をより確からしいものに付し直さない)、
つまりは、引き受けざるを得ないものとそうでないものを、局面事情の要請とは関係なく区別しない状態に、子どもを据え置いたまま社会に送り出す、既存の教育を疑ってるわけです。
そして、そう言える場合、文系の言説に対し、
それは局面の疑似でない性質次第です、それは主体の疑似でない固有性次第です、判断選抜もフェアな方が結果を負うにも納得できます、
この種の指摘(いらぬ飛躍の指摘であり、引き受けざるを得なさへの帰属要求)が取りこぼしなく持たれる方向に、文系空間や文系教育を変える必要があるはずです。
(変える必要性にご賛同いただけましたら、ご協力のほど何卒よろしくお願い申し上げます。
何らかの文系言説に上のような指摘を意識してくださるだけでも、協力していただけたものと受け取るつもりでいますし、
現状何の実体もない、文系空間や文系教育を変えたい党、文系改革党といった像に対して、心の中で応援して下さるだけでも、同様に受け取るつもりでおります。
よろしくお願い致します。)
仮に、政治をその合致問題へと持ってくには、
生についての、場に存在を通用させる話から、場での有り様の具体化精度を最大化させる話への移行
(後者から前者への言わば、精度の低い実験結果をフィードバックしてる有り様と見た、修正対象扱い)を、先立たせるか並行させる必要があるのだとしても、
生を問題解決に重ねつつ(呼吸や姿勢制御の時点で既に重なる)、問題解決というものに対して持ってる抽象具体の関係構造の像における、
同種の他との共通要素の捨象(文系的な捨象)を用いた抽象化具体化の不足を抑える事で(つまり、内実の確からしさへの志向をもって)、
生に関する表層次元への過大評価(どういう表層形をしてるかに振り回されてる低通用事態)も抑える処理が、
その移行の中身でもあると捉えれば、やはり内実の確からしさ(内実に関して通用を行き渡らせる事)への問題意識の涵養が前提として要請されてる(教育を修正する必要がある)と考えるべきでしょう。
(ここで言う不足抑制について、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像で具体化する有り様が、それに相当すると現在期待しています。)
また、より確からしいものが取って代わる運動性を阻害しない主体像を、主体にとっての上限状態と見なし、
内在事情外在事情の代替利かない要素(引き受けざるを得なさ)にのみ応じる主体像を、
その運動性(無限性)によって自身の有限性形態(できる事できない事)を決めてる在り方、
したがって、その運動性にとっては阻害が最小である受け皿と捉え、
場(自国社会や国際社会)におけるその主体像の占める割合を可能なだけ高める
(場の割り振り原理としての需給事情を、引き受けざる得なさに帰属させる)事まで場の管理者の責任に含めるとして、
割合を可能なだけ高める教育が不在である場合の、その事態への否定的反応(問題解決)を上の主体像をもって具体化する事まで、
対政治には含まれてる(無限性を阻害なく取り込んだ政治への協力)と解しましょう。
注、投稿の際は、スレタイの事情から次の文章を冒頭に付けました。
直接的には、求め過ぎる者(裏切る者)の登場可能性(理念の事情で極端な結果まであり得る)がある限り、中世ヨーロッパのように個人の精神等を縛りにいく秩序方針に頼らざるを得なくなる歴史パターンについて、
問題視してない点に原因があるのでないかと想像します。