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既存の教育像の弊害指摘(理系的局面でしかいらぬ飛躍を取り除けない人を作り上げて権威まで与え、自国社会国際社会の改善を阻害してる)を刷新像にも触れつつ

2021-12-001

算数の文章問題を解けるなら、客観化や数字化を必要に応じて持ち出せるだけの捨象能力が育成された、という事でしょう。

一方で、局面と着目無視を一致させつつの、言い換えると、差異への過大過小反応を忌避しつつの振る舞いを越えて自他を助けない、フェア志向な小学生がいたとしても、
現状、学校教育とは直接関係ありません。


フェア志向でないという事実は、
ドーピングによる金メダルのように、場が問うてる差異に疑似化が生じてようと、
その修正(割り振り原理が持ついらぬ飛躍の除去)に、理系で言えば、実証実験の精度向上に、先立つものを持ってる事を、

ひいては、自分が採用してるものも含め、理論や主張を検討し、いらぬ飛躍を取り除く帰属修正能力が、
対象についての通用してるしてないの判断の段階から、機能不全にある事を、意味するにもかかわらずです。

(フェア志向でないのに、自身の内面世界が覚えた感情なり欲望なりは疑似化してない、自身に帰属するものと判断するのは、
林檎は数えられないのに蜜柑はできると思ってる的、確からしい原理不在での十全解決認定による、疑似化してない状態なものの閉じ込め。)



これは、これまでの教育が、
対象に関する抽象具体の関係構造(理解や実力)を構築する際の土台として、
対主観をはじめ、同種の他との差異要素の捨象次元の維持は求める反面、

自身の理解や実力の有限性形態(現実が持つ複雑さに通用してる程度の領域的偏り)に対して、
表層形自体の良し悪しに振り回されないだけの確からしい根拠を持たせる事にも繋がる、
同種の他との共通要素の捨象次元の維持は求めない(後者の維持能力を埋没させてきた)という、

近代性が持つ捨象観(理系的捨象への特化)に対し疑問を持つ事なく、そのまま体現してきた
(個性尊重を謳ってようと個性を閉じ込めてきた、内実を問わず表層形のみで断罪する人間を作り上げてきた)証拠、


知性の育成に関して不十分である(既存教育への特化を避けなかった人達の知性が、理系域以外ではいらぬ飛躍をスルーしてしまう持ち腐れである)証拠であり、
(いらぬ飛躍の除去能力が弱い者にも権威与える働きをしてる以上、
帰属の操作によって奪ったり擦り付けたりが保存されてる、都合の押し付け合いの強弱問題へと矮小化された世界を、支えてると見なされて仕方ない)


例えば、日本社会では、場の表層に合わせるのでなく、場の代替不可能な固有性にのみ合わせる(具体化精度を上げる)よう常時ケアしないと、空転も十分あり得るのに、
場に合わせる合わさない(空気を読む読まない)の二択しか提示してこなかったなど、

権威は持ってるけど大した改善を齎さない、居座る事で社会(が負わせてくるもの)の確からしさ向上の足を引っ張ってさえいる、文系の知的上層が、
再生産され続けてる原因でもあるでしょう。



内面世界や局面も含むので、場は無数に有って、短期で性質が大きく変動するものさえあり、
ポジションや具体的有り様の割り振られは、偶々そういう帰結を齎す割り振り原理を持つ場であっただけであって、
持たれるべき論点は割り振り原理における、つまりは、場の固有性とされてるものにおける疑似化されてる部分の除去程度である、

という負わせる負わされるに関する像
(例えば、感情の加工無き発露であろうと、それが可能な局面とか必要な局面という、意識的や無意識的な認知を踏まえた産物と見るべき、
言い換えるなら、内在の性質と外在の性質が合わさった帰結という、現象の構造の外に出てないと見るべきで、
具体化精度により肯定否定される問題、といった理解)の採用促しも含む、


フェア志向化の教育
(特化に過不足のない人生という、選ぶに値する事を意味する、通用の行き渡ってる状態が保存されつつの変遷を、人生に対し可能にさせる、
割り振られにおける具体化精度の問題を、端的には、具体化精度への志向を、ポジション確保に先立たせる教育)に熱心でもないのに、
つまり、各文化から不当獲得への鈍感さを取り除く働きかけが、少なくとも本筋としては存在してないのに、


例えば、戦争は無くならないと決め付けて、世界に帰属する性質かのように断ずる
(実証実験の欠如に相当するこの時点で断ずるのは、世界に対する冤罪的側面を許してしまってる)のも、

できるだけの事はしたが駄目だった的な、確定性向上に関する姿勢なり能力なりを、
持ち合わせてないまま原因帰属や事実認定を試みるという、知性の形骸化の現れと言えますし、


戦争や資本主義のような特定の表層形にだけ、局面事情による次善の策の要請とは無関係に、こだわって根絶を望むという、
不当獲得への鈍感さの縮減に繋がるか疑問(そもそも、そのこだわり方が不当獲得的)な為、
たとえ叶っても、異なる表層形の不当獲得へと着せ替えるだけにしかならないだろう試みで、
その水準(抽象次元が射程に入ってない話)に甘んじてる主張で、

満足してる人(肯定否定反応が理想への取り違えやズレた具体化から成っていても表面上、平和的友好的であれば問題視しない有り様は、
不当な不利益回避や利得への鈍感さ故に、帰属修正の対象が狭まってる現れでしょう)、
抽象次元に手を入れるのを阻害さえする人が、知的上層であろうと見られるのも、


文系的な実力(先の後者の次元維持を規準に、いらぬ飛躍を見出せる対情報)を育てないのに、権威を振りかざせる地位
(実力不足の自覚ない働き者ほど厄介)まで与える、既存の教育

(内実の確からしさ、つまり、内実のいらぬ飛躍の除去程度に関係なく表層形自体の良し悪しだけで肯定否定の根拠には十分であると捉える人、
しかも、権威でもってその肯定否定を通そうとする人を作り上げる類の教育像)の弊害でしょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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