3419文字、救済する側にも、される側にも、泣き寝入り強要が生じていない救済(自己救済込み)について
2024-5-003
内在性質と外在性質を対立関係として捉えると、ふっかけ合いの末の妥協が関の山な秩序観となり、丸儲け丸損の関係まである世界しかつくれないと考えます。
なので、強弱関係の肥大化部分に付き合わなくて済むよう、内在性質と外在性質の統合を前提とし
(例えば、他者に何らかの印象を覚えたという時点で、仮説に過ぎないにせよ、他者の有り様を構成する行動原理とその具体化条件を見出したのと同じと捉える)、
内在性質について取り違えられてる部分が外在側にとって負う理由のない部分、
外在性質について取り違えられてる部分が内在側にとって負う理由のない部分と見なす秩序観を採用して、
両性質の取り違え最小化の達成具合が論点(未達成状態が解決状態として扱われない)となっており、
修正余地のなさしか受容しなくて済む世界(帰属関係に修正余地のない獲得喪失しか生じない世界への志向が自他の幸不幸への言及に先立ってる必要、
例えば、帰属関係の修正余地に鈍感な人が自他の被った搾取に対し否定的反応を示してる場合に、
その事態が林檎を数えられないにもかかわらず蜜柑はできてるつもり的な原理不在として扱われる必要がある)を可能にしましょう。
フェアを越えない救済(自己救済込み)が、救済する者に過剰な役回りを負わせる展開も、
救済される者に過剰な獲得を齎す(救済される者を奪う者に仕立て上げてしまう)展開も避けられてると言えるのは、帰属修正が先立ってるから、
つまりは、両者の置かれてる場の性質について、取り違え等の疑似化(他の場による越境および侵略を受けてるのに等しい事態)を、
拒否した状態で割り振りが為されてるからで、外在場の取り違えだけでなく、内在場の取り違えも射程に入れると、
救済する側やされる側に泣き寝入り強要が見られる救済を問題状態とした時の、問題状態でない救済と言える為の条件は、
個別性の取り違えを最小化した内外事情にしか応じない主体像(例えば、帰属修正を感情に先立たせてる生、
あるいは、帰属修正を体に先立たせてる生)を自身や対象に要求してる事であると推測されます。
(フェアを越えない救済は、救済される側のアンフェアな望みには付き合わないわけなので、
救済される側の責任領域にまで踏み込まない意味での他者尊重、他者の自由の保障が言えますが、
この救済を、救済資格の開放も財産権の開放も秩序を担う立場になれば、秩序に必要な縛りから免れてる者を排除する同じ展開構造見せると歴史的に言える点を踏まえつつ、
帰属修正を介入に先立たせてる管理者の像で捉え直すと、共有地の悲劇をプレーヤーが三体以上であっても抑えられるよう管理者ポジションが必要とされるにせよ、
管理者によるプレーヤーへの介入限界を、疑似化してない事情しか引き受けないよう働きかける事とする話になると考えます。)
なので、この条件を満たしてない倫理的主張(例えば、局面の取り違え最小な性質と着目無視の設定との合致、
自我の肥大化を抑える要件でもあるこれを、自他に求めないまま語られてる差別や格差への言及)に取り合うのは止めましょう。
この種の倫理的主張(道徳的なものに対し肯定的態度を採ってるか否定的態度を採ってるかによらず、上の主体像でない有り様を肯定してる類)が影響力を持つ限り、
Aから奪うのを問題視しながらBから奪うのは問題視しない、つまりは、林檎は数えられるけれど蜜柑はできない的な原理不在の意味で、表層次元に留まってる倫理(抽象度の低い倫理)が保存され、
強者は弱者から奪って良いとか、弱者は強者から奪って良いといった発想がまかり通ってる世界
(奪う奪われる現象の着せ替え処理が問題解決を意味してる世界であり、この発想の実現を可能にするものとして権利があるのは、
個別性が根拠になる局面でも個別性の取り違え最小化が要求されないパラダイムによる為、
このパラダイムの一種を体現してるが故に、質の高低差異を無視した多様性しか取り扱えない欧米文系の産物に対し、真に受ける人が影響力を持つ世界でもある)から、
帰属修正を経た獲得しか生じない世界(帰属修正の上限において生じてる偏りは肯定され、その種の偏りしか肯定されない、
かつ、上の主体像のように、内外境界の発生意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、
これらから現象が成ってる状態を帰属修正の限界と見なす世界)への移行は阻害され続けると解しましょう。
ところで、ある人が前期と後期で異なる主張をしていて、自身も前期を否定してるのに、
流通してる為に前期主張を採用する人が生じ得る点を踏まえると、あくまで主張の影響力を削ぐべきと思います。
つまりは、通用が行き渡ってないものに対し、通用が行き渡ってる状態を示す、これが主張自体についてだけでなく、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえて誰もが肯定否定しているけれど、観点設定次第で通用が行き渡っているいない判定は変わってしまう点から、主張の受け手が採用してる観点についても必要で、
後者は受け手への、個別性の取り違えを最小化した内外事情にしか応じない実存の要求
(観点も、認識場の個別性もこの実存の反映にするという、上の相関が判断行為全体に行き渡ってる状態達成、
言い換えると、判断の内実確からしさ差異と向き合い、判断に関して上の相関にしか頼ってない、言わば、判断原理が原理として扱われてる状態達成の要求)が相当していて、
自身に対するこの要求は、前者後者を自身が具体化する際の条件に相当します。
(当然、この実存でなくなってまで成し遂げられた達成は拒む為、この実存と整合的な損失や不効率は否定されず、もちろん、この実存と整合的な喪失しか肯定されません。)
また、この要求には、論理に対し、通用を行き渡らせる試みとして整合処理を見つつ、
個別性が根拠にならない局面における同種の他との差異要素捨象の下での整合である理系論理と、
個別性が根拠になる局面における同種の他との共通要素捨象の下での整合である文系論理とがある、これ以上の価値付けを与えない事の要求も含まれてると考えます。
主語を切り出してくるという処理も、述語を与えるという処理(修飾関係込み)も、意味を特定するという処理も、文系的局面では、
限定を受けてない状態の準備、その状態にとって引き受けざる得ない限定条件の割り出し、
これらをもって文脈による限定作用に伴う通用性低減を補填し、通用が行き渡ってる状態を達成する試みが、
個別性の取り違えを最小化した具体化条件による具体化と言えるパターン全体に通用してる要素の抽出、
および、その抽出物が置かれる場の個別性の取り違え最小化から成ってる時に肯定されると考えましょう。
このような肯定方針が標準でないのは、理系ではガリレオ時点で理想と現実が事実上架橋されたのに、
文系では理想現実関係について、プラトンアリストテレス的上下論の対象から抽象化具体化の不十分さ解消の対象へと移行できてない証拠であり、
この未移行が、理想を割り引く程度を最小にしてる現実として、認識者の認識場があるかどうか、存在性の演出的発現フィルターである表現者実存があるかどうかをはじめ、
嘘も演出もひっくるめた加工の過不足を問わない、もちろん、過不足の修正もされない原因、
例えば、対象理解(この具体化条件においてはこういう具体形になる、という連関の束についての、
具体化精度の高低を踏まえてる場合は、高い具体化精度の連関のみから成る為にその時点での修正余地を持たない有り様と言える像も押さえた仮説)が対象そのものから乖離してる事態を、
認識場の個別性(認識場の持ってる偏り)が先の要求内容である実存の反映であるかどうかと関係なく肯定否定し、
この実存と整合してる特化から見た、特化しな過ぎな喪失を擁護したり、特化し過ぎな獲得を要求する原因であり、
例えば、知性倫理美意識の権威においても文系事象に対する言及が、個別性捨象への批判にかこつけて取り違え最小化させてない個別性の根拠化を押し通すロジック、
何でもありと化してる個別性根拠化への批判にかこつけて個別性捨象を押し通すロジック、この二択であるせいで、
帰属修正でなく、過剰特殊の正当化や不当合理の正当化が、知性倫理美意識の働きとして誤認され、
主観の取り扱いからしてそれら正当化から解放できないでいる原因であると解しましょう。