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どうすれば知性は真価を発揮する事ができ、発揮されてる世界はどのような内容であるのかについて(2900字)

2020-10-001

場の本質を損なわないように体系(形式や帰結)が組み上がってるかどうかを、
対象への配慮の観点から見ると平等についての問い、対象が見せる反応への評価の観点から見ると自由についての問いになるとしてれば、
フェア(場の本質に即した割り振りへの支持)を越えては助けない救済方針や、表層形は場の本質に即してるべき(表層形のみをもって肯定否定しない)との倫理態度に繋がり、

自己に対しても、精神面の振幅にその方針や態度を整合させる事で、少なくとも、権益対立フィルターのかかった悩み苦しみは抑えられるはずですし、
デスマーチ展開の発生頻度を下げたり、秩序破壊厭わない不利益回避なり利得の正当性主張の説得性を縮減させるだろう、
場の性質変化も追う類の、場の本質に即した体系化が標準である社会にも近付くはずです。

一方で日本に見られる、日常レベルから空気等、場の表層に合わせる、場を荒らさない個人像(応じる必要ない要素にまで応じてる)や、
それがデフォルトである事の弊害か、(欧米を引き合いに出した対策としての、場に合わさない個人像への反転含めた)盲従にまつわる使用の外に出ない節がある知性実態
(問題発生への対応が、場の本質と整合的な表層形ならOKとする方向へとは向かわず、権益対立状況を作るに留まり矮小化に陥る)から、以下の3点に自覚的に取り組む必要があるように思われます。



競争と協調のどちらを選ぶかは場が決める事である上に、競争の結果も協調の形もフェア基底の時だけ肯定されるべきで、
場の性質と無関係に競争や協調の是非を語る(もちろん、競争から協調へ、差異着目から差異無視へという主旨の主張含む)のは絶対主義(場に合わさない)的態度による話の矮小化に当たる、との理解をもって個人の社会性を捉え直し、

理想を割り引く際、場と齟齬のない形への加工とは言えないなら過大過小であり、
パラダイムに縛られてる(加工のない状態を用意できてない)など、理想を取り違えてるケースもあると認め、
理想と現実の関係(加工の妥当性に関する理解)を、置かれた場に合わせる前と後の関係正常化に当たる、抽象化と具体化条件割り出しの精度(捨象対象を局面要請と一致させつつ網羅できてる程度)問題として捉え直し、

対人における、局面に即した着目無視に徹した振る舞い(ここの合致問題に鈍感であると、表層的な要素を本質的な要素かのように扱う不当を許してしまう)をしつつ、
同時に、対象の精神面(内面場)がいらぬ囚われ(表層的要素に振り回されてる低通用性状態)負ってる程度を評価し、局面次第では扱いに反映させる対応(平等と自由の同時希求)の、
対情報版(情報が帯びてる体系性を評価する)でもって対盲従を図る。

つまり、対場に際しては常に冒頭で言う組み上げを問うところまで、対場を抽象化してない抽象不足が問題の所在と疑えるので、
小学生でも、算数の文章問題解く局面では、それ用の着目無視枠組みを持ち出す事実を踏まえ、
この種の処理を、局面の固有性把握に際しては同種の他との共通要素を捨象する為の着目無視枠組みが必要との理解を特に押さえつつ、対場全般へと押し広げる方向で知性を、教育を捉え直す必要ありと考えます。



実際、ある観点の下での通用領域広狭判定、この確からしさ認定の処理自体は常に前提で、
観点設定にも通用性判定が機能してるしてない(何かについて問うという限定作用を代替不可能化させてるさせてない)だけが問題(介入可能な部分)であり、
取り上げる差異に関する設定が、その場における確からしさ差に相当する問われるべき差異からずれてる為に、根拠に値しないものを根拠扱いしてる(代替不可能な有限性、それ以外の要素も根拠になってる)事態を意味する、
そこが機能してない状態での対象への位置付けや扱いは、肯定的否定的によらず不当、

この理解を踏まえてない類の思考は、通用が行き渡ってる状態を保全しつつの展開でないという意味での形骸必至なので、
そこの機能不全阻止、特に、捨象対象選定の偏向阻止を内容としてない知的誠実さは見掛けを誇ってるだけであり、見せかけてるも同然なのに、その類でもまかり通ってる状況と言えます。

もちろん、理系域ではその通用領域(説明できてる範囲)の広さから、欧米知性が紡いできた流れに合流する以外の選択はないでしょうが、
主権や財産権の使われ方の実態を野放しにしてきた点
(フェアアンフェアの扱い差の無化は結論選抜などが、ドーピングによる優勝を許してる並みの精度しか持たない事を示唆してる)を見るだけでも、

文系域では欧米知性への相対化(より通用領域広いものが解決原理として持てるに越した事ないとの理解)や、
問題点(少なくとも、表層反転な解決センスと捨象対象偏向は、通用が行き渡ってる状態を取り違える原因)見出した上での乗り越え対象扱いを、

見えてる回避可能な限界をわざわざ負いに行く(大した理由なく共犯になりに行く)のを避けるべく、知性使用の前提としていて良い(日本は距離的にも可能な)はずなのに、
前提とせずして、何らかの限定からは逃げられないにせよ、(何でもあり状態とその弊害を抑えるべく)引き受けざるを得ないものとそれだけの状態に持ってく方策を見出すという真価(対有限性)を発揮してる事にはならないだろうに、
実際には既存の枠組みに盲従的(距離取りに失敗するレベルで通用性判定が鈍ってる)であり続けてきたわけで、



世界を主導してきた欧米の知性の基盤には哲学がある事を考えると、
恐らく、加工に関する先の捉え直しをその内容とする、プラトンやカントにおける対割り引きや主語述語関係理解の修正(ニーチェやハイデガーの対プラトンは表層反転で解決を図ってる)にまで遡り
(通用性判定の精度にいらぬ限定負わされる事態への敏感さをまず持つ必要が、個人の知性にはあるように、
いらぬ飛躍の除去を損なわせない対加工を知性枠組みに基盤レベルで備えさせてしまうべき)、

また、理性(局面に即させる能力)と感情(内面場の産物)の上下論、人間性(次元設定自在性)と動物性の上下論も、
展開の紡ぎ方の質無視(理想状態への一足飛びや固執)と変遷作用の質不問(現アイデンティティや現習慣等の盲信的根拠採用)の二択(抽象化具体化の精度が歴史性の論点になってない)、
その社会の性質とは無関係に体系の是非を語る(絶対主義)のと社会の性質を構成してる者の有り様を吟味せず(事実上の何でもあり)に社会との齟齬を糾弾する(相対主義)のの二択も、
対場についての抽象不足の弊害扱いする事で、

知性や理解(対象に関する抽象具体の関係構造を十分に確立できた感)への縛り(現状は、権益対立フィルターがかかってる反射による思考や議論、歴史の展開矮小化が常態)を解く事が、
世界からいらぬ限界を取り払う
(何の差異に着目するか含め、価値付け自体は場の責任としつつ、偏りが場の代替不可能な固有性そのものとなるようできるだけ寄せる責任については我々が負う世界が立ち上がる)という意味で時代を変える本筋であろうと思われます。

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欧米文系の権威性からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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