3541文字、政治の機能不全の原因についての考察、個々人の能力に対する言及の受容条件にも触れて
2023-9-001
実態である事をもって(疑似化してるしてないに関係なく)根拠とするよう強いる様を実態主義として扱うなら、例えば、市場は実態主義ですが、
市場から見て計画経済は、実態が持ってる疑似化部分を削ぎ落す方向性ではなく、実態軽視の方向性に相当してるわけで、
両者は場に合わせる合わさないの表層形二択の関係と見なせ、問題は前者には実態(需給事情を構成してる個々事情)の疑似化問題が、
後者には需給の一致度という観点を放棄するだけの局面事情の有無に関する問題があるだろうに、
これらを埋没させてる、という意味で短絡な形でもってこの二択枠組みが前提に据えられてるケースと思います。
同様の構造は、主観(自分はこう感じるとか、自分はこう思うとか)が根拠になる局面にも言えて、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてきた結果の主観は、個別性からその疑似化部分を剥ぐ意味での仮説改善を、齎す類の仮説検証関係が内包されてる為、上の局面における根拠足る
(逆に、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化が不十分な主観は、
具体化精度の低い検証結果を仮説にフィードバックした結果である改悪仮説を押し付けてる形になる)のに、
この主観へと近づける方向性を、
内在不問外在軽視な典型自由観に落とし込まれてる主観立脚、形式論理学的な典型論理像(同種の他との差異要素捨象に特化した論理しかないかのごとき論理観)による主観軽視、
この二つから成る疑似二択(反知性と知性の二択のような装い込み)が、今なお潰し続けてるので、
個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象を機能させられる能力
(個別性内実無検討と個別性捨象の二択はこの場合、場に合わせる合わさないの二択に言い換えられる為、相対主義と絶対主義の振り子の外に出るのに必要)を、
文系事象への言及が影響力を持てる条件としましょう。
(通用が行き渡ってるという肯定条件の保存展開系として論理を、抽象化具体化の交互反復による同一性変化の同時達成として展開を捉え、
内外境界発生、つまり、差異そのものである為、有無や肯定否定の差異、ひいては、存在や論理法則の前提である有限性に、
無限性が先立つ構造があるとしたらそれは、通用が行き渡ってる事態そのものとしての無限性が自己足るべく、
仮説改善に相当する展開性から成る無限性有限性関係の形で、有限性の登場を要請してる像であると解しましょう。)
ある文系的主張に対し、表層形反転でもって知的な何かを成し遂げた気になる
(例えば、単なる硬軟反転でもって、通用が行き渡ってないとの指摘なり、主張の外側に自分はいるとの主張なりができたつもりになる、
当然、林檎を数えられないので数を数えられるとは見なせない的原理不在が、抽象化具体化の不十分さの取り出しについて言えてしまう)ケースを疑似解決
(対象に修正余地が、つまりは、抽象化具体化の不十分さが実際にあっても符号を反転させるだけで済ませ、修正余地はそのまま保存されてるのに解決扱いしたり、
表層形と場との整合具合を論点にしてない為、反転を優先する事で整合状態から不整合状態への移行、つまりは、整合度を具体化精度として見た時の精度低下を齎す展開も十分あり得るので、
有害と言えるこの反応が今なお知的権威にも見られる以上、既存の権威枠組みを保全する者、
例えば、先の改善改悪の区別を組み込んでない既存の理解力像や論理像を妄信し、
その有害性を指摘されてなお自身の修正を拒むべく、指摘を矮小化してやり過ごす、上の有害反応そのままな人達は、有害性発生に与してる側)と見なし、
現社会の有り様や社会の在り方像に対する同種の反応(ローカル性の扱いが上の主観での疑似二択に重なるなど)が政治に影響力を持つ限り、
政治は疑似解決しか齎さない、この意味で政治は機能不全であり続けるとまず認めましょう。
続けて、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さが解消されているいない(十分不十分が問題なので、もちろん、抽象化と具体化は価値対等)と、
文系事象への肯定否定との整合が、十分に期待できる社会(ひいては、秩序の名の下に受ける整合の根拠を、
置かれてる場の性質とし、その性質が代替不可能な内外事情にしか応じない実存だけから成ってる政治)へと近づける試みには、
内在不問外在軽視な典型自由観の実現よりも、代替不可能な内外事情にしか応じない有り様を、自身はじめ対象に求める
(その有り様な実存への、修正余地という抽象像と今偶々持ってる具体的問題との間を繋ぐ具体化条件としての、つまりは、問題を切り出してくる際の根拠としての扱い込み)とか、
抽象化具体化の不十分さ解消状態を修正余地がない帰属関係状態と見て、同種の他との共通要素捨象を用いてるケースでのそれへの志向も、
自身に帰属してるしてないの判断(被限定の感覚の前提)に先立たせるといった、自由概念の内容上書きも、
同有り様な主体像を、どんな主体にも求めつつそれ以上は求めない(過去や未来の主体も含むこの態度は、絶対主義と相対主義の間の振り子から、テキスト解釈を解放するのにも必要)とか、
受けた糾弾を矮小化しないだけのフェアも期待できる、局面で問われてる差異と着目無視との合致への志向をはじめとする、
各場(内面世界や局面、自国社会や国際社会等)の疑似でない個別性の尊重を、場に置かれてるものへの尊重に先立たせる(場の尊重の下の平等)といった、平等概念の内容上書きも、
含まれてるので、奪う奪われる世界への非難が着せ替え(立場が換わるだけ)への誘導でしかない過去からの脱却
(負わされるに値しないものを負わされる環境自体の改善)でもあると解しましょう。
(ちなみに、内外境界発生とより確からしいものが取って代わる運動性との統合の意味で、上の有り様は有限性と無限性の阻害ない統合現象なので、
この有り様な実存への志向の不在は、有限性を存在の前提として認めると、無限性の受容阻害を意味し、
この有り様でない実存への肯定はその受容阻害についての許容や推奨に等しいと言えます。
また、抽象化具体化の不十分さ解消状態を解決状態と見なしてれば、主体に上の有り様以上を求めないはずなので、
他者にそれ以上を求めた時点で、修正余地の有無と整合してないとの意味での疑似問題をもって自他を振り回してきた証拠、
逆に、上の有り様な実存を自他に求めないのは、各人が不可避な能力有限性故に真善美なり無限者なりとの間に生じるのを許してる距離を、修正余地のなさへと至ってる点をもって受容に値するもの扱いするのと、
同様の扱いを至る前の距離に対しても為し、その分だけ過剰に負わされてる有り様を生み出してきた証拠です。)
例えば、個々人の能力に対する言及で言うと、
その人が疑似でない自己存在(形骸でない存在尊重としての対自己)を生きてるかどうか、
つまり、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と、能力なり情報なり可能性なりの獲得喪失有り様(変遷の遅速込み)とを、整合させてるかどうかの観点で為される肯定否定も、
各場で問われてる差異と着目無視との合致を保持しながら(不一致に寛容である程、ドーピングによる金メダル的な帰属操作の発生可能性が高まる)の位置づけも、
(局面と着目無視との合致の観点から自他を評価し、合致の採用の下で自他に接する方針は、
上で言う上書き自由と上書き平等の原型であると共に、これらの原型でもあると思われ、
妄信と反動反発の同時否定問題に先立つ、見て見ぬ振りと大騒ぎの同時否定を、したがって、その方針の内面化を小学期の課題と捉えれば、
何ができて何ができないか等の有限性形態に上の実存との整合具合という意味での質を見ないとか、需給成立に関して冒頭の埋没的二択枠組みを持ち出すとか、
同種認定処理のレベルから局面に拠ってるのに自他の関係に関し何の差異を捨象するかについて局面と無関係に語るなども、
小学期の課題をやり残した帰結であり、やり残したまま文系権威に至れる環境の産物であると疑えるように思います)
内在場や外在場の性質が疑似化してるしてないについての判断精度が高ければ高いほど確からしくなる
(低いほど試みる意味がなくなる為、局面次第でしかないものを局面と関係なくこうあるべきと決め付ける的雑さに近づく)わけで、
個別性が根拠になる局面なのに同種の他との共通要素捨象を機能させられない人の為す言及は、この意味において形骸ですから、
その種の言及の影響力を極力下げる方向に与するのでなければ、不当な扱いに許容的な世界の方に与してる、
そう見なせてしまうし、そのように扱われて妥当という話になるので、気をつけていきましょう。