3541文字、対自己や対他者の教育実践、対政治や対労働の教育実践が形骸化してしまう理由について、哲学の形骸化と質に対する勘違いにも触れつつ
2023-6-005
四則演算ミスってる主張を採用するのも、内面局面や資質環境の性質を疑似化部分込みで踏まえてる振る舞いに修正余地覚えないのも、大して違わないのでないかと思います。
(しかし、実際に見られるのは、対主観はじめとする同種の他との差異要素捨象という理系的次元設定上での、対象の関係が整合的であるかどうかの差異については扱い差異に反映させる一方で、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存を維持しながら書かれた文章であるかどうかの差異を文章理解に含めないなど、
同種の他との共通要素捨象を用いる文系版は不在であるという状況です。)
代替不可能な内外事情にしか応じない実存(に獲得喪失を整合させた特化具合)を紡ぐのではない生有り様に修正余地を覚えない
(紡いでなさを修正余地としないまま保障する類の、したがって、帰属関係に修正余地ありとの意味で現在が疑似的個別性であり、そのような現在が続いてく事になる類の個別性尊重を、
国等にも拡張しつつ内容にしてる形の権利観なり秩序観なりに疑問を持たない)のは、
有限の与件性を認めつつ(そこに紐付けられてる現象に対しては奪う奪われる側面の発生を認めない事とし、
そこに紐付ける作業を対その側面としつつ、もちろん、奪うか奪われるかの二択で語ってるも同然な自由観等は与するに値しないとしつつ)、
有限性が受容に値する状態(内外境界に帰属の修正余地がない状態)にあるか否かを論点としてる内容以外を疑似化部分、捨象対象と見なす人であれば持ってるはずの、
有限性の代替不可能化(より正確には、抽象化具体化の不十分さ解消)から乖離してる部分持つ問題や解決に修正余地
(問題解決というものに対する抽象化不足の分だけ生じてる疑似問題性や疑似解決性)を覚える知性や倫理や美意識の欠如故でしょうから、
その実存は、内在場外在場の上に立ち上がってるものにおける場の疑似でない固有性に即してない部分(秩序の疑似化部分)を捨象されるべきものとして扱う以上、
場を尊重する原理の働きも内包してる(例えば、内面世界と自国社会と国際社会の内、
どれかのその部分は捨象対象だけれど、別のどれかについてはそうでない、というのでは林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在)と言えます。
そして、その原理の具現として、フェアを越えて自他を助けない救済像も(具体化精度最大化を具体形の都合の良し悪しに先立たせるという、
この逆転への警戒が文理でまだまだ差がある内実次元表層次元関係であるこの像とは異なる救済実践、
つまりは、奪い合い関係の着せ替えでしかない為に奪うのと質的に変わらない救済実践への、
もちろん、帰属関係の修正余地の有無という質の違いが論点でない倫理、したがって、受容に値しないものを負う負わせるのを正当化する、
それこそ、疑似問題部分を取り除くのでなくいらぬ渇望を満たす、いらぬ苦しみを癒すのを強いる内容してる倫理のごり押しへの対策として、
少なくとも、フェア志向にコミットしてる文系者の割合を、実験結果の根拠性にコミットしてる理系者の現時空での割合にまで引き上げる事は可能なはずです)、
余裕の有無具合に合わせた対成立(余裕のない局面では成立自体を、余裕がある局面では成立の内実確からしさを重視する方針としてのこれが、
既存の文系教育における対子どもに組み込まれてないのは、冒頭で言う文章理解に関する実情から明らかなので、
既存教育は、理想現実関係がチキンレースで即離脱的な過保護知性のまま文系域において権威を振るう事態への修正機会を外から与える事なく、子どもを社会に送り出し続けてると言える)も、
場の疑似でない個別性との整合ではない秩序受容(負わされる筋合いないそれ)の強要に対する否定反応の具体化条件(否定するという主題が置かれる場の性質)に、
先の実存(外在場の疑似でない個別性には応じるその性質上、場に合わせる合わさないの表層形二択には当たらない)を据え、据えた結果の具体形それ自体には拘らない対応も、
あるわけなので、対自己や対他者の、あるいは、対政治や対労働の教育実践が仮にあったところで、その内容が上の実存と整合的ではない場合、
それらは形骸(救済や受容に過不足があり、解決しなくて良いものまで解決対象に定めた結果のいらぬ苦しみ、解決対象を過小評価したあげくの自発的泣き寝入り、これらの原因になりさえする)と見なしてしまって良く、
この形骸化の対策には上の疑似化部分見なし(言い換えるなら、内外境界線をより確からしく引き直す処理以外に対する捨象対象扱い)にまで遡る必要があるのでないかと疑います。
ここで、通用領域の広狭と確からしさとの相関を認識前提と認める、少なくとも、具体形パターンを網羅してるほど確からしいと認めるとして、
この場合、具体化精度を、最大化させてないものもカバーする量的パターンと、最大化させてるものしかカバーしない質的パターンとがあり得るわけです。
内実に修正余地があるかどうかを論点としないまま表層形の二極を保有する有り様は前者なのに、この意味の特化回避
(ハイデガーやデリダを擁する系譜は当然として、事実重視や物質重視をもって留まる形をしてる対観念論も、通用を行き渡らせる処理が内実に向けられてない点は同じ)を質と見なして、
内実に修正余地があるかどうかを論点にする事で表層形を論点にしない、この意味での特化回避が質と見なされる状況の到来を阻害してる様が、
知性や倫理や美意識の権威にも未だ見られる(冒頭で言う不在がこの事態を齎してしまう)から、
前者と後者を余裕状況に整合させる先の対成立(例えば、需給事情を構成する個々事情の内実に修正余地があるかどうかとは関係なく、需給実態が根拠になる実態主義的側面持つものとしての市場を、
重視する方針に別途、余裕がある時は消費対象や投資対象に代替不可能な内外事情にしか応じない主体を選ぶ、という実態主義対策付す対資本主義)も、確立が阻害されてるのだと解しましょう。
注1
冒頭で言う文章理解について、
これは、それら自体は良くて実態把握止まりなのに実態主義対策を付してない市場重視や民主制に疑問が持たれないのと、
あるいは、そのままでは内実の修正余地が反映されてしまう直観系や現象学系に実態主義対策の観点からの修正を求めないのと同じ問題構造であるだけでなく、
書き手の人生についての抽象化具体化の十分不十分の差異を問わない歴史理解、
この場合で言うと、具体化精度を最大化させてない自己有り様を自身に関する抽象次元にフィードバックしてるしてない、という量質観点が持ち出される事のない歴史理解でもあるので、
文系的な抽象化具体化交互反復に対し質を問えない、少なくとも、帰属関係の修正余地見出しを原理レベルでは持たない為、
通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転であるかどうかを問う対論理の文系版も機能してない事が、
したがって、受容に値しない論理結果を肯定し、受容に値する論理結果を否定する対自他が意味されると考えます。
注2
世界から主語を切り出す、主語から述語を切り出す(修飾関係込み)、これらの切り出す前後関係の内実が、
不十分でない抽象化具体化である時(抽象化具体化が先の実存によって為されてる時)、主語述語に修正余地はない(受容に値する)。
この構造をもって類推可能なものの一つに、悩んだり絶望したりが捨象されるべきもの(引き受けに値しないもの)を含んでいるかいないか問題もあって、
先の実存には、局面と着目無視との合致への志向(フェア志向込み)も、外在秩序(文化、ひいては言語込み)との本文で言う付き合い方も含まれてると考えます。
つまり、有限性の代替不可能化という抽象物から、先の実存をすべての主体に拡張した主体像をもって個々主体に固有の問題が切り出され、
そこから同像をもって現主体事情に即した受容に値する状態(条件上の解決状態)へと導かれる、
という問題解決というものを抽象化した像、および、問題解決とフェア志向との関係、
問題解決と外在的問題解決スタイルである文化(内在的それである自我との間の交互反復の歴史込み)との関係が言えると考えるわけです。
そして、哲学においては、プラトンアリストテレス時点で主語述語関係に持ち込まれた、
理想を割り引いたものとしての現実という像提示への、抽象化具体化の不十分さ解消とは関係ない反応像に対する、
不十分さ解消の方向で修正する展開が、理系(数学で自然を説明したガリレオ以降)でしか生じてないので、
既存の哲学の枠組みを用いては、悩んだり絶望したりから引き受けに値しない部分を取り除き切るのは無理でないかと思われます。