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3161文字、近代性に対する妄信と反動反発の同時廃棄を、表層的認識論および表層的存在論からの脱出の観点で
2024-11-008
自分に帰属がある問題解決スタイルである自我について、改善フィードバックの機会からも遠ざける過保護と、
認識主体が認識対象を置く場(認識場)の個別性を介さない認識の追求の形でもって放棄させ、自分に帰属してるべきものがしてない不自由状態、
および、数を数えられないのに林檎を数える的原理不在状態での存在課題(置かれてる場に自身を通用させ続けるという前提)への対峙を強いる虐待。
この二択について考えると、前者には個別性の取り違えの保存を、自我の無邪気な始点化によって引き起こすデカルトパターン、人間の共通性への立脚に際する個別性捨象によって引き起こすカントパターンも含まれるので、
近代性の傾向と見なす(ヘーゲルは具体化精度の高低に扱い差異をつけないまま個々具体を統合する為に改善になってないパターン)として、
この場合に対置させる後者は、認識論から存在論への遡り推奨パターン(獲得喪失有り様を導いた根拠に含まれてる飛躍をスルーするのに等しい、有と無の内実不問な両極保有に至るハイデガーパターン)などの、
過剰性の原因を主体立脚に見出す形での反動反発(文化立脚に反転するケースにも特化の過不足への鈍感さ故の絶対化方向と相対化方向がある)と見なせ、
言語化に際する取りこぼしの暴力性を重く見て言語化(統合化、整合化、合理化、構造化等)以前を重視する方向性もこの文脈になるわけです。
そして、この妄信(個別性への同種の他との共通要素捨象の埋没、および、同種の他との差異要素捨象の領域侵犯から成る枠組みの意味での近代性を、
そのまま持ってしまってる既存教育の素朴な受容は、前者の自然なインストールに繋がる)と、
反動反発(前者におけるリバタリアン性やリベラル性を徹底した成れの果てな類の包摂拒否や多様性確保とも見なせる)の両者を、
同時に排してるのが代替不可能な内外事情にしか応じない主体像であると考えます。
実際、その主体像の反映でない属性込みで肯定する過剰肯定と、反映である属性
(この場合でも当然、どの属性が着目され無視されるかは、他者の認識場なり局面なり社会なり時代なり、主体の置かれてる場が決める上に、
主体の産物に対しても含め、対象のどの側面が取り出されようと場の性質の取り違えが最小であるなら修正余地がなく受容に値する為、
いらぬ取り違えの反映である取りこぼしだけを暴力と解するべき)込みで否定する過剰否定
(取りこぼされを含む、空事態にむしろ自由や平等といった尊重理念を見出す発想込み)を、
同時に排してる実存(代替不可能な内外事情にしか応じない実存)においては、
内在的な問題解決スタイルである自我は、割り引かれの拒否ではなく具体化精度の最大化が論点になってる形であるが故に、上限化された改善フィードバックを受けますし、
外在的な問題解決スタイルである文化(言語込み)の内面化は、代替不可能な部分のみを引き受けてる形です。
また、認識論は、認識対象を置く場に生じてる表層の汚れを拭うだけの枠組みに留まる
(置かれる前と後を抽象状態と具体化条件に合わせた加工結果の関係とした上で、
変化性の内実である抽象化具体化交互反復への拡張も込みなそれについて、抽象化具体化の不十分な部分への修正余地扱いを逸する、
したがって、常識やルールが場の本質から乖離していても、乖離を修正したり乖離部分に付き合わない運用をする対応が十全に機能せず、それらを生かし切れない、
例えば、標準像に、ひいては、標準的でないルートを通った成立であるかどうかや標準的でなさ程度の把握に取り違えが生じるせいで、
それが閉塞の開放や成立の意義崩壊を意味してようとも情報を生かし切れないままでいる)事なく、
この場の個別性がその実存を生きてきた結果と言える有限性有り様であるかどうか、
つまりは、能力や情報や可能性の獲得具合が、存在するのと引き換えでない要素が存在に帰属するのを防いでる生の反映であるかどうか、
という存在立脚に関する過剰性(獲得喪失有り様を導いた根拠に含まれてる飛躍)の除去具合まで扱ってる形ですし、
解決されてない状態に対する耐性の獲得や過剰意味付けの捨象には主体放棄系アプローチが必要であるとは、
その実存と整合的な、局面事情と着目無視設定との合致の意味でのフェアを越えてまで自分を助けない方針によって、解決状態への過剰な志向からの解放が可能である以上、言えません。
(上の存在立脚を扱う認識論は、実存の内実確からしさが認識の確からしさに繋がるという構造ですが、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を、この相関が何の差異に関して持ち出されるかという観点設定にも適用するこの相関への徹底依拠が、ある種の実存を要請する、という話なので、
存在の根拠を認識としてる立場の一種と見なせる気もしますが、この立場で最も有名なデカルトは、
懐疑の末に残った疑えぬものの内実確からしさを問うてない以上、表層の汚れを拭っただけの表層洗練に留まってると言えます。
また、内実が確からしいならどんな表層形も肯定するし、内実が確からしくないならどんな表層形も修正余地のあるものとして扱う態度ではない以上、
表層形Aと真逆な表層形Bの同時保有自体や反復横跳び的自在性自体に意義を見出す発想は表層次元に縛られてる証拠です。
例えば、場の本質を志向してないと、ある場の性質が他の場による越境の影響込みである事態を許容してるのに等しい為、
多様性確保は形骸であり、外在場に合わせる合わさない二択枠組みの産物である内在不問外在軽視な典型自由観は疑似問題であって、
感情選抜や意見選抜の、あるいは、優勢劣勢有り様選抜の論点を、茶番選抜化に対するフェア志向による阻止としつつ、表層次元に縛られてる多様性確保や表層形開放を糾弾する必要があるのもそれ故です。)
ちなみに、文化傾向(何の差異に着目するか、どういう状態をもって解決扱いするか等)における自然環境由来の割合はそれなりに高いでしょうが、
似た自然環境を生きていても他種の対自然には、種レベルでの存在課題こなしの産物である代謝システムや幼体成体関係込みな性別システム、
それらと整合的な認識システム(が持ってる有限性有り様)の反映であるが故の遠さもあって、
それが問題解決の参考になるならない、あるいは、広義の分業や競合といった話に繋がる事実、
および、他種や無生物含め、場に置かれてるもののポジションや具体的有り様は場の性質によって規定され、
場の性質の取り違えが小さいほど規定も修正余地がないけれど、取り違えを限界まで小さくしてる(整合作用を受容に値する状態にまで持っていけてる)と言える為の必要条件だろう、
より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害が最小な有限性有り様であり、理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立たせてる現実である代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(市場や民主制はこれを要求しないと場の性質把握が量的に細やかになるだけでなので、表層を汚れを拭うだけの実態露呈に留まる機能不全へと陥る)は、
同種の他との共通要素捨象を育てない既存教育(搾取に対する糾弾すら場を荒らすという表層形を理由に封殺し、泣き寝入りを強いる用いられ方してる協調系理念が、
存在するのと引き換えでない要素を存在に帰属させてる帰属操作の保存を、存在尊重にかこつけて強化してるケースあり)によって確保を阻害されてる事実、
他種との関係の像に対するこれら事実を埋没させている(表層的認識論や表層的存在論、
個別性が根拠になる局面にも個別性捨象を持ち込む通念的論理観では抜け出せないこれらに留まっている)いないによる評価は、搾取を正当化する解釈やロマンチック過ぎる解釈を退けると期待します。
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