3618文字、場への重視軽視が過剰な肯定否定になってる人間関係像から、政治や人生を解放する方法について
2023-3-003
哲学で問題なのは、理想を割り引いたものとしての現実、という古代の時点で認知されてる関係について、
何ら限定されてない状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
これら(抽象化と具体化条件割り出し)の上限化(通用領域の広狭と確からしさとの相関を前提とした、
限定理由の確からしさ確保による限定前後での確からしさ保存)から成ってるかどうかで肯定否定する対象とする事に、
文系では未だなってない点と思います。
近代以降に話を限定すると、
理系では事実上なってる(同種の他との差異要素捨象を用いた、上で言う上限化はある)のに文系ではなってない(同種の他との共通要素捨象を用いた、上で言う上限化はない)、
という歪な枠組みに世界は押し込められてると言えて、
世界に対するこの限定化が、限定前後での確からしさ保存(上で言う上限化に相当)となってない、
つまり、世界の具体的有り様が、受容に値するものとなってないのは、当然、文系部分に原因があり、
その歪さは、文系地平に対する不当合理と過剰特殊の二択縛り(個別性に対する、実態の内実確からしさを問わない類の軽視重視)を強化してる形
(グローバリズム批判の内容がローカル的なものの、あるいは、実学重視批判の内容が教養的なものの、内実不問な保障に留まるとか、
逆に、対立や分断への対抗として友愛や連帯などの理念踏まえた対搾取が持ち出されるとか、
この類の反応は近代以前からあるのだろうけれど、近代科学の成功と自我の始点化という事件以降、強化されてる形)であって、
この意味での機能不全が哲学の最も大きい影響であり、
例えば、親子間に関する既存の理論群が生の在り方の、分配法則に関する既存の思考実験が政治の在り方の、権威に未だなれてしまう状況もここから来てると疑います。
逆に言うと、格差であれ賞罰であれ、
現象は内在の性質と外在の性質の合わさったものであり、両性質が代替不可能的であるほど現象は受容に値する、
との現象観をもって捉え直されてる世界に変えてしまえば良い(世界の具体的有り様は受容に値するものになる)わけです。
実際、その現象観と整合的な世界は、
局面と着目無視の合致を基盤とし、管理者立場とプレーヤー立場との間でのその保障を内容とする他方への要求およびこの受諾によって支えられた、
場の疑似でない個別性を介して敵とも味方とも自分とも人以外とも繋がる世界でもあるので、
そこでは当然、非対等性に対する単なる増減操作でしかない内容の自由や平等、対絶対化や対相対化から、政治は解放されてるはずです。
(ちなみに、上の現象観について、
現象を内外境界での統合有り様と見れば、現象自体は有限の与件性に帰属がある事になり、
両性質の疑似化に対して不問であるか表層の汚れを拭っただけの実態主義的な現象は、より確からしいものが取って代わる運動性への帰属を欠いてる事になる、
また、そのどちらにも帰属がある場合は、帰属に修正余地がない点をもって受容に値するものと見なせ、
その地点に持ってく働きとして知性や倫理や美意識が機能してない人は、受容に値しないものを負わせる負わされる世界、
特に、外在場の性質が疑似化されてる状態で獲得喪失が展開される世界の原因である、
以上の理解も込みで採用するとして、その場合、例えば、実存に対する既存の分析は当然、
内在性質の実態と内在性質の内実が確からしい場合の有り様、外在性質の実態と外在性質の内実が確からしい場合の有り様、
さらには、この4要素の関係を拡張した、抽象化具体化の交互反復という歴史性自体と、抽象化具体化の不十分さ解消という歴史性や論理性における展開についての受容条件、
これらをもって自己含む認識対象を捉える枠組みに、落とし込んだ際に捨象される部分を疑似解決として含んだもの、と見なされる事になります。
一方でそう見なせない人は、有意義無意義反転関係を真に受けてる例で言うと、
場に合わせる合わさないの表層形二択のような妄信反動反発パラダイムで解決や世界像を縛ったままの、
もちろん、そのパラダイムへの糾弾に対しても保全前提な反応を繰り返すだけの日常、
ひいては、余裕があってなお下で言う対権威課題を放置し続けてる人生なのだろうと疑われる事になるわけです。)
また、新しい情報のフィードバックをもって、仮説である手持ちの世界像を再構成しにいくいかないは、幼児の時点で日常ですし、
対象を不完全さ持つ一人の人間として相対化しつつ、安易な在り方の反映である不完全さは受容しないが、その反映でない不完全さは受容する有り様(過剰肯定と過剰否定の忌避)は、
対権威(この場合、親や先生)での振り回されなさ(対外在の通用性向上による自身の具体化精度確保)として小学生の時点で重大な課題
(個別性が根拠として受容に値するしないに関し事実上不問、という既存の教育が持つパラダイムへの妄信から脱して、
具体化精度の低いもののフィードバックは改悪である点を踏まえた情報獲得へと、文系的情報についても移行する前段)です。
もちろん、治る前後や成就する前後など、有無推移は人生を通して無数にあるわけなので、
余裕がない局面では成立自体を、余裕がある局面では成立の内実確からしさを重視するという、
場に価値を決めさせる(有限の与件性に現象を帰属させる)有り様、言い換えるなら、あくまで論点は場の性質把握の深浅とする有り様からくる重視軽視反転関係
(日常性不問も前者局面では肯定されるわけなので、当然、哲学が不要な状況もある、
しかも、これを認めない哲学には、場に合わさないという具体化精度無視が改善フィードバックの機能不全を意味する為、対象の内実確からしさ向上としての働きに疑いが生じる)、
および、その捨象の効き具合を意味する為、局面の個別性(個別性が根拠になるならないという文理差異含む)が疑似でないかどうか、
加えて、対象の有限性形態(できる事できない事の有り様など)が代替不可能な内外事情の反映かどうか
(その主体の不完全さが安易な在り方の帰結かどうか)を判断する前提となる、同種の他との共通要素捨象能力、
これら込みでの先の基盤の内面化は、達成が早いに越した事ないと言えるだけでなく、
個別性の内実検討不在(自身の対外在における具体化精度不問込み)を促進する類の理論や実践から自身を護り、
不可避な不完全さの下での上限である事を誰しもが求められ、上限としての不完全さは受容される
(有限性故の真善美との断絶も、限定理由の代替不可能性による補填をもって限定前後での確からしさ保存が達成されてるかどうかという、
内在事情や外在事情に対するその主体の態度が問題になってる)世界と自身とを、
言い換えるなら、持つ者は持つ者なりに最善、持たない者は持たない者なりに最善でありさえすれば良い、という平等観と自身とを整合させる事でもあります。
特に既存の教育は先の歪さをそのまま体現してる為、
例えば、内面や局面の個別性を同種の他との共通要素捨象に十分さらしてない状態で選抜した感覚感情なり文系事象に関する意見なりを、外界に負わせる事について、
あるいは、ドーピングによる金メダルのようなそうした形骸物が蔓延する世界(茶番世界)に対して、
許容しない類の知性や倫理や美意識は現状、自力で獲得するしかない上に、既存の教育が持ってる価値観
(代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合させる気のない能力なり可能性なりの獲得推奨、
および、同種の他との差異要素捨象に特化した論理観や理解観)からそれら知性等を護る必要があって、
学問世界も、ある個別性が同種の他との共通要素捨象に十分さらされたものかどうかを区別できない
(不当合理と過剰特殊の二択地平への、つまりは、近代性への安住がこの問題を助長させてる)、
したがって、文系事象についての仮説が具体化精度を上限化させた情報(検証結果込み)を基に形成されたものかどうか、
主語の切り出しや主語の述語化に際する限定作用が限定前後の確からしさ保存を達成してるかどうか
(主語述語関係はこの論点を古代以来持ってない)も区別できない文系学者の存在から分かるように、
その教育の延長線上にあるせいで、それら知性等に対し現状、無理解である(ここを糾弾しても、話を矮小化して保全に勤しむ可能性が高い)為、
護れてないなら、仮に哲学を学ぶにせよ、その機能不全が世界に与えてる影響を止める
(例えば、場への重視軽視が過剰な肯定否定になってる人間関係像から、政治や人生を解放する)どころか、追認する事になるだけです
(それら知性等を欠いてれば、自力哲学はもちろん対文系の思考は、過剰特殊系や不当合理系のいらぬ飛躍を取り除き切れてない産物しか手に入らない)。
なので、それらを獲得したり護ったりに必要な先の基盤内面化(小学生なら小学生なりに可能)をまず果たしましょう。