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2963文字、分かり合える合えないは論点でないなどの倫理の話(生を確からしくする作業への妨害にも触れて)

2023-8-008

有限(内外境界発生)の与件性(AとA以外の関係が成り立つ前提であり、有と無の差異も依存するため存在の前提)にのみ帰属してる現象かどうか(修正余地の有無)で肯定否定する態度
(負わせる事になる何かや負わされる事になる何かが、発生元の存在と引き換えに生じてしまうものである場合に限って肯定する、言わば、形骸でない存在尊重)を先立たせてる人は、

秩序との整合(何らかの抑制なり犠牲なり)を強いられてる事例について許容するしないが、
奪う(帰属関係を操作する)為に持ち出された平和概念や権利概念であってもまかり通る、といった事態に繋がるのを防いでる
(疑似化してる外在性質を受容する余地も、疑似化してない外在性質を拒絶する余地も潰してる)側と言えるように思います。

なので、関連する主体が、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像だけから成ってる現象は受容に値し、成ってない現象には修正余地がある、この観点を欠いてるなら


(例えば、分かり合える合えないは論点でなく、何ができて何ができないかという有限性形態がこの主体像の反映である者同士の間に生じてる距離かどうかが論点であるとの理解を、

もっと言うと、冒頭の主体像は当然実存を含むので、後者論点は、対真善美や対無限者における、理想を犠牲にする程度を最小にする現実尊重という論点と、
加えて、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の十分不十分に修正余地を見る枠組みで捉え直した理想現実関係、
したがって、数学で自然を説明したガリレオによるプラトンアリストテレス架橋の文系版と整合的であり、

他方で、前者的論点は、精度の低い検証実験の結果までフィードバックしてしまう仮説改悪や、
具体化精度の高低を区別しない具体形パターン網羅をもって抽象具体関係構造の像を構築してる対象理解なり実力獲得なりと整合的である、との前者的論点の疑似性踏まえた理解を欠いてるなら)、


対戦争であれ、対いじめであれ、倫理的言動は疑似問題や疑似解決だと捉えましょう。
(そもそも、冒頭の主体像を生きる必要性を覚えてない時点で、個別性に関する帰属関係が疑似化していても受容する傾向を、
特に、帰属修正が獲得喪失に先立ってなくても気にしない有り様を、意味してしまう為、

その人の対文系における知性倫理美意識は、帰属修正としては十全に機能せず、つまり、帰属修正としての問題や解決を持てない、
ひいては、通用が行き渡っているいない感という選択にとっての根拠を修正余地についての形骸な有無判定の反映としてしか持てない、との意味で疑似問題や疑似解決しか持てず、

機能してない分だけ帰属操作に寄ってる、これは負わせる事の正当性主張にも負わされる事の不当性主張にも言えるので、奪う奪われる世界の保全側に寄ってると言えます。)



例えば、民主制や市場も、個々事情を直接割り振り原理に反映させる方式だというに過ぎず、
需給事情等の、場の性質がそのまま割り振り原理になるだけでは、疑似化していようがいまいが実態である事をもって受容を強いる実態主義なので、

反映される個々事情が冒頭の実存だけから成ってる状態へと近づける程、場の疑似でない性質に対する尊重の、その立場故に可能な具現のみが他方に要求される管理者立場プレーヤー立場間関係という、
受容に値する整合にとっての条件が満たされてる状態にも近づく、と捉えましょう。


もちろん、局面と着目無視との合致の意味でのフェアを志向してない生(局面も内面世界も場なので、自他尊重が林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的原理不在となってる上に、
フェアを越えた尊重に対し、正当化したり、余裕ある局面でなおスルーしたり、修正余地のない善かのごとく扱ったりで、奪う奪われる世界に与してきた生)であるが故に、

自己を具体化する精度が低いままで得た経験の集積が反映された、したがって、改悪積み仮説も同然な性質から成る認識場の産物のごり押し事例にも、実態主義が言える為、

直観系や現象学系の主張に対しては、たとえそれが不当合理を批判する文脈であっても、不当合理と過剰特殊の二択への矮小化誘導
(というか、個別性が根拠になる局面で同種の他との共通要素捨象を持ち出さない地平な時点で、

文系事象への反応は、知性倫理美意識の権威具合によらず、個別性捨象と個別性内実無検討の二択の外に出られない)、
別の言い方すると、明晰曖昧スペクトラム上の点と局面との整合試みの埋没化という帰属修正阻害を引き起こす、明晰と曖昧の間の振り子で何かを成し遂げた気になる短絡的発想なので、
取り合うのを止め、対民主制等と同様の構造踏まえた修正余地を覚えましょう。



例えば、賞罰は場との整合であって、しかしそれだけでは、抽象化具体化の単なる交互反復(量的歴史性)から、
抽象化具体化の不十分さ解消な交互反復(質的歴史性)への移行は果たされず、

Aさんが冒頭の主体像な実存(内在的問題解決スタイルである自我と外在的問題解決スタイルである文化の関係込み)を生きていて、
かつ、Aさんの置かれてる社会が冒頭の主体像な実存を生きてる人だけから成っていてやっと移行が果たされ、

果たされてるなら、Aさんが表面上罰を受けてるように見える見えないに関係なく、受けてる扱いは受容に値するし、そうでない場合には修正余地があるわけです。


責任能力の有無についても、冒頭の主体像な実存を生きてる結果かどうかの観点を欠くなら、
表層的な話しかできず、表層形のみで肯定否定する人達への糾弾に与した場合、自己糾弾に陥る生と見なされて仕方ないし、

環境に働きかけられる以上、冒頭の観点をその環境におけるデフォルトにするという課題を、代替不可能な内外性質統合である冒頭の主体像でもって具体化してない、
つまり、これ以上無理という内外の線引きに確からしさがない段階では、環境のみの責任を主張できず、この構造は運についても言えるように思います。



ちなみに、デフォルト化にとっての直接的ネックは、同種の他との共通要素捨象を個別性が根拠になる局面で持ち出す能力を潰してしまう既存の教育、

もちろん、場の疑似でない個別性との遠近の意味での質に、例えば、文脈踏まえる類の理解力の向上とか、主観立脚な選抜精度の向上とかにコミットできない為、
質追求が要請されてる局面と量追求が要請されてる局面との分別精度に関わる、質を量に先立たせる方針も採用できなくなるそれと思われ、

既存の教育が背景に持ってるパラダイムの上書きに、したがって、知性倫理美意識が負ってる防げる類の矮小化の据え置きに、
最も責任ある立場が哲学者(分析哲学系とポストモダン系の関係は先の二択の典型例なので、責任を果たしてるとは現状言えない)であるわけです。


(生は問題解決なので、抽象化具体化の不十分さ解消から成るその時点での修正余地潰しという問題解決の抽象像から、局面等の冒頭の主体像な実存に合わせて具体形を切り出してる、

この内容へと、自身の存在を成り立たせてる自身の問題解決を、持ってく試みがそのまま生を確からしくする作業であり、
知性倫理美意識が帰属修正として働かないという矮小化は修正余地残しを引き起こす為、その作業の妨害への糾弾は第一に哲学者に向けられると解しましょう。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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