2129文字、弱者救済を搾取の着せ替えレベルから解放する話
2024-10-002
弱者救済を搾取の着せ替えレベルから解放するには(ちなみに、競争系搾取だけ見て協調系搾取を見ないのは、
林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在故の表層的理解が、競争系搾取について言えてしまい、
批判が芯を食えない分だけ冤罪的側面を持ってしまうのに批判してるという形だけで満足してしまう低い問題解決能力が疑われても仕方ありません)、
無邪気に無闇に助けるのではなく、助けな過ぎ(余裕のある人がない時と同様に振る舞うとチキンレースで即離脱的な理想軽視の形になり、
これは条件変化への反応の鈍さの点で形骸化した常識を用いた異端審問と同じ)や、
助けられ過ぎ(フェアを越えてまで自分を助けない場合から見た疑似問題を捨ててしまうよう、
フェアを先立たせる有り様に寄せる働きかけを欠くなら救済する側にも責任はあるのに、
先立たせてる人の感覚の産物と先立たせてない人の感覚の産物を区別しない無責任)の縮減を押さえる必要があります。
(権利概念や義務概念はこの縮減を内包してないので、補完されてない段階では次善の策と捉えましょう。
特に、存在するのと引き換えでない要素まで存在に帰属してるしてないを区別しないまま存在尊重を強いてる事態を放置してるから、人権概念が奪う根拠に成り下がるわけで、
放置してる人の、人権概念を重視してる感を真に受けるのは止め、悪意がないなら内実を検討する能力を欠くが故の無自覚に奪う事例として接し、
指摘してなお修正しないなら悪意があるケースと事実上変わらない事例として接しましょう。)
また、優勢劣勢差異の無化(赤ちゃんという助けられる立場からスタートして、助ける立場、再度助けられる立場に移行する流れがある以上、実態無視になる)ではなく、
優勢劣勢有り様の肥大化(いらぬ劣勢を負わされる何かがいる事態の発生)阻止を目指す必要があります。
前者は、100出せる人と10しか出せない人との間にある差異への過剰反応から、
100出せる人の90も、10出せる人の9も同様に糾弾する感覚(条件上の最善を求める発想)を守る的な話なので、
限定を受ける前状態の準備、引き受けざる得ない限定条件の割り出し、これらの上限化の論点化が必須です。
(実際、個人レベルであれ社会レベルであれ、支える側も支えられる側も、理想を割り引く程度を最小にしながら成り立たせてる現実への志向を持つなら、両者間関係は健全化するはずです。)
後者は、各場の取り違え最小な個別性に秩序(例えば、競争有り様や協調有り様)を即させる話
(フェアを損得自体に先立たせる話もこの一種)なので、具体化精度の上限化問題であり、
対常識や対文化を特定時空性の付し直し問題(異端審問化の阻止込み)として捉えると、場の個別性の取り違え最小化は上の二つの上限化処理(抽象化具体化の不十分さ解消)に重なります。
つまり、仮にヘーゲル(具体化精度無視な抽象重視)後の主流哲学(具体化精度無視な具体重視)が出揃って以降を現代とすると、現代は第一歩の時点で間違っていて、
既存の文系空間(これの有り様は競争協調の実態に対し責任があり、責任概念は、
仮説Aの帰結を踏まえてより良い仮説Bに差し替えるサイクルを機能させる上で必要)を肯定してたり、
否定する場合でも同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さを問題状態として扱う問題解決観
(理系空間は、同種の他との差異要素捨象を用いたこれを持ってる)の不在を否定対象に含めてないなら、
その人はこの間違いを認めてないも同然なので、救済的行為を搾取の着せ替えレベルから解放する試み含む修正を、
ひいては、いらぬ劣勢を負わされてる何かがいない世界有り様(代替不可能な内外事情にしか応じない主体の集積となるよう、
この主体有り様が解決状態として扱われてる世界)への接近を阻害してる側として位置付けましょう。
(もちろん、理想現実関係が抽象化具体化の不十分さ解消状態となるのを阻害してる以上、
存在するのと引き換えでない要素を存在に立脚させない態度でもある代替不可能な内外事情にしか応じない実存の反映としてしか、
物自体への加工を、存在性の演出的発現を、無限者との対峙に際する割り引き的関わりを、
認めない方向性も阻害する為、知性や美意識や信仰に関する修正不全の問題でもあります。
その実存を生きてる帰結としての自身の有限性有り様から見て、そうでない部分も込みで自己を肯定するよう促す過剰肯定誘導も、そうである部分込みで自己を否定するよう促す過剰否定誘導も、
修正余地の有無の見分けがつかないのに肯定否定する問題解決能力不全の現れの点で取り合うだけの確からしさを持たない上に、それらの修正不全に導く有害な働きかけと位置付け、
方法的懐疑において通用してる領域の広狭と確からしさの高低との相関に依拠しておきながら、
この相関を持ち出す際の観点に対しては同相関を適用しない、つまり、知性倫理美意識がこの相関にしか頼ってない状態ではない為に、物自体への加工がその実存の反映でない類の主観も許してしまうデカルトや、
近代性におけるデカルト由来部分を、根拠に用いてる言動もここで言う過剰肯定誘導に含めましょう。)