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近代性を相対化し、脱却が果たされたその先に、哲学の正された姿も可能になるはずとの期待の下、その相対化に必要な理解について

2020-5-004

哲学がいらぬ偏り(表層的立脚)を負ってる原因は、
理想と現実の関係や主語と述語の関係(主語の切り出し局面と述語化局面)に対する、
場に置かれる前と後の関係正常化という観点なり方法の不在が、プラトン以来続いてる点にあると思います。
そして、AがAである限りそのAが引き受けざるを得ない要素を代替不可能な性質とした上で、
場の代替不可能な固有性にのみ合わせた加工に限る方向性の不在、そう言い換えるなら、
近代性(検討された内外分離に解決を見るセンス)がその種の方向性とバッティングする事情で、
近代の枠内にいる限り、偏りは解消されないと考えます。

例えば、車が突っ込んでくる可能性のある場において、
その可能性を一切踏まえない、その可能性に過剰反応して身動き取れない、
どちらも否定する方向は、場の代替不可能な性質のみ引き受ける有り様であり、
その有り様の方が、場に合わさない絶対性よりも場への通用性が高いと言える以上、自由であるはずです。
さらに、場の本質のみを引き受けてる有り様と言えるには、
場に合わせた加工と見なせる要素の一切を剥いだ状態の準備(抽象化)が厳密には必要である点、
ドーピング選手への失格扱いは、
問われるべき差異(場の本質が反映された差異)を取り出すのに必要である点から考えて、
フェアの要請やフェア基底の世界を目指した試みは、自由の必要条件を提供してる形と言えます。
しかし、フェア(問われるべき事に即した割り振り)を強いてるという表層形をもって、
その種の要請や試みを非自由と見なす、そうした構造が上のバッティングの中身として想像されます。

カントがプラトンにおける不在を近代バージョンで繰り返したようなものであるのも、
ニーチェやハイデガーが対プラトンでの見立てを誤ってしまったのも、
場に合わさない絶対性を肯定するかその反動でしかない否定の二択(どちらも近代性)を振り子してるのも、
近代の枠内にいる限り、表層の洗練はあり得ても進むべき方向に進めない、
パラダイムを相対化できるはずの哲学が対近代では機能してない、そうした表れと見るべきでしょう。
なので、まず近代を相対化し(対近代でも哲学を機能させ)、
上で言う一切を剥いだ状態に哲学を持ってく働きに、対近代を組み入れる必要がありますが、
それには、場の代替不可能な性質のみに合わせる方向性を、次のように捉え直すのが有効と推測します。

抽象と具体の行き来として歴史性はあり、それが確からしさの向上や確保を担う、
その実質に当たるのが、理解や自由の実質(通用が行き渡っている感やいない感の実質)でもある、
ある種の相補性(これによるいらぬ飛躍の除去と上の方向性は同等)、端的にはフェアであって次の二つ、
抽象化と具体化条件割り出しでの差異形パターン網羅志向、問われるべき事と捨象対象の合致配慮から成る。
通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性から成る、
無限性(確からしさそのもの)自身が、自己足るべくこの構造(ひいては有限性)を要請(差異の始点)。
(認識におけるそれら相関と運動性への立脚を阻害する、表層的立脚の混入を防げてると言えるには、
通用が行き渡っている感やいない感がフェア基底で立ち上がってる必要あり。)

というのも、この理解を踏まえた上で、
信仰は無限性と有限性の関係正常化に他ならないのに、有限性一般(限定作用含む)へのその人の対処が、
引き受ける有限性の代替不可能化をその内容としてないなら、信仰における正常化も内容にしてないか、
してても真っ当な原理不在(抽象不足)で満足してる形(家電を叩いて直してる段階)と捉えたり、
同種の他との共通要素の捨象が埋没してる(局面と捨象対象との合致志向の欠如)など、
次元設定(着目無視)の操作生の高さ(人間性)は必ずしも、問われるべき差異が何であるかについて、
精緻な取り出しに繋がってるとは言えない(アンフェアの発生因)と捉えれば、
個人の判断や国家の権威や科学の在り方から宗教性を外へと分離するという、近代の基盤が、
内在の深化も外在の深化も、当然、深化させた両者の統合も、齎さない事実と、
その弊害の存在が明らかになるからです。

また、人権等、個人の扱われ方に関する各国やその国民の反応が時事的トピックである上に、
還元問題は学問領域において重大な疑問であり続けてます。
つまり、全体と部分(個人)の関係における錯綜(近代性の帰結)を解消する動機がある以上、
点から直線が作られる、直線から点が切り出される、そうした全体と部分の関係に対する、
局面の性質と無関係に上下(体系)を見る必要はないし、
体系はフェア基底で立ち上がってる限りにおいて肯定する(損得や役回りの自他への受容根拠)、
という態度(見ない見るは価値対等)に繋がる、
抽象と具体の価値対等観(論点は両者関係に関する実質の有無)を導く、上の理解は不可欠と考えます。

また、上の理解をヘーゲルの歴史観や体系観のあるべき修正形と見れば、
マルクス系譜とニーチェ系譜、ヘーゲル後の主要な二つの軸が持つずれを捉える事が可能になります。
先に見たように、抽象と具体の、全体と部分の価値対等性を前提に据えるなら、
実践や具体的生などに反動する事も、還元先を反動させる事もなく、
需給事情や秩序感覚のフェア化なり、フェア化したそれらから時間感覚を乖離させない態度なりが、
つまり、内面世界や局面、環境といった場の形態によらず、
何の差異が着目され無視されるかが場の代替不可能な固有性に即してる状態の保存が、
論点になるだろうからです。
もちろん、哲学も体系の側面を持ちますから、体系化に際する零れ落ちや隠蔽は、
通用領域の拡大の観点から当然警戒すべきです。
しかし、その観点からである以上、解決を図るにせよ過不足ない解決となるよう、
フェア基底な世界や生活を望む(自由の必要条件の自他への提供)のと同じ方向性に解決を、
つまり、哲学の正された姿を見るべきでしょう。

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欧米文系の権威性からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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